ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室

(高校受験には全く役に立たない)中学校の国語に関する話題を中心に書いてます。

「少年の日の思い出」の思い出その⑤

※しつこいようですが、表記については原文のドイツ語に当たればはっきりすると思いますが、そんな気力も能力も無いので、あくまでも「日本語訳」の表記にこだわった茶々読解について述べていきます。

「二重にしてくびにかける数珠」「ここではきものを脱いでください」など、どこで句切るかで意味が変わる言葉の例題はたくさんありますが、前回挙げた

そこで、それは僕がやったのだ、と言い、詳しく話し、説明しようと試みた。
 すると、エーミールは、激したり、僕をどなりつけたりなどはしないで、低く「ちぇっ。」と舌を鳴らし、しばらくじっと僕を見つめていたが、それから、「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな。」と言った。

の下線部は、いったいどこで区切って考えれば良いのか、これに実はひっかかっています。たぶんほとんどの人は、「①言った+話した+説明した。」(そしてそれを全て聞いた後で「すると、」以下に続く)というふうに捉えるのが当たり前、と思っているのではないでしょうか。でも、だとしたら「と言い、詳しく話した。」あるいは「詳しく説明した。」で良いですよね?そして何よりもなぜ、「試みた」という文末表現にしたのでしょうか?(ここで原文のドイツ語が分かれば良いのですがね。英語のTRYにあたるような単語があったのでしょうか?)

「話した。」「説明した。」と「試みた。」を比べると、受ける印象がかなり違います。つまり、「試みた。」という表現には、「成功しなかった。」というニュアンスがかなり強く感じ取れます。だとしたら、成功しなかったのはどの部分なのか?

別の区切り方として「②言った+話した。さらに説明しようとしたがうまくいかなかった」という考え方もできます。しかしこれだと、「話した」と「説明した」の内容は、一体どう違うのか。いずれにしても、この状況で主人公がエーミールに話す、あるいは説明するべき内容は以下のようなことになると思われます。

(1)自分もクジャクヤママユが好きで好きでたまらなかったこと。(2)せめて一目見せてもらいたいという気持ちで来たこと。(3)部屋の鍵が開いていたので、一目見るだけのつもりで勝手に部屋に入ったこと。(4)見ている時に出来心でどうしても欲しくなって持ち出したこと。(5)潰すつもりは全くなく、物音に怯えて慌てて起こったアクシデントであること。(6)エーミールに許してもらえるよう頼みにきたということ。・・・他にも考えられますが、まぁ最低限これくらいのことは伝えようと「試みた」のでしょう。しかし、そうなるとやはり「話す」部分と「説明する」部分を分ける必然性がますます感じられません。以上のことから私は、自己満へそ曲がり流読解でこの部分を「③言った+話したり説明しようとしたりしたが、それはうまくいかなかった」という意味合いに捉えるべきではないか、と考えます。

そう捉えるとどうなるか?非常に悲惨な結果になりますよね。つまり、「それは僕がやったのだ。」だけは伝えたが、その後の「なぜやったのか」「どういう気持ちでやったのか」「何をしに来たのか」という、一番大事な部分をきちんと伝えられなかった、ということになります。さらに言えば、この「きちんと伝えられなかった」にも二通りの考え方ができます。

一つは「(1)〜(6)の内容を、説明はしたのだが、全く相手にされなかった。」という考え方(これをA案とします。)

もう一つは「説明しようとした時にエーミールに舌打ちされてしまい、そこから先(1)〜(6)の内容が全く説明できなかった。」(これをB案とします。)

Aの考え方も、Bの考え方も十分あり得ます。なぜなら、主人公がエーミールのところに行くことをためらった理由が、まさにそれだからです。曰く「あの模範少年でなくて、他の友達だったら、すぐにそうする気になれただろう。彼が、僕の言うことをわかってくれないし、おそらく全然信じようともしないだろうということを、僕は前もってはっきり感じていた。」と。Aの考え方はまさにこれであり、Bの考え方も、このことが意識の中にあったから、「説明しようとしたが、舌打ちされた段階で説明しても無駄だと気づき、それ以上何も言えなくなってしまった」というように考えることができるからです。とはいえ、AだったのかBだったのかによって、その後の主人公の悲惨さ、トラウマの強さが全然変わってくることになります。では、「説明は一応できた」のでしょうか、それとも「そもそも説明出来なかった」のでしょうか。          自己満へそ曲がり流読解で言わせてもらえば(何度も書いたとおり、原文はいざ知らず、日本語表記だけから読み解くとするならば)少なくとも「説明」はされていない、となります。なぜならば説明「しようとした」という表記は、「未遂だった」と読めるからです。そして「説明」は未遂だが、「話し」だけは遂行された、というのもつじつまが会いません。以上のことから私はB案、つまり「それは僕がやったのだ、だけは伝えられたが、それ以外の説明はできなかった」と読み取りました。では、もしもそうだったとしたら一体それはどういうことを意味するか。その考察については次回にさせていただきます。よろしれけばまたお付き合いください。

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「少年の日の思い出」の思い出その④

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教科書を読んでいて、今回また新たに「気ーづいちゃった気ーづいちゃったわーいわい(©デッカチャン)」ってことがありました。何かというと「微妙な教科書の記述の変化再び」です。「少年の日の思い出」の旧記述では『僕は、「床にお入り。」と言われた。』でしたが、新記述では『僕は、「とこにお入り。」と言われた。』になっていることに気づいちゃったんですよ。確かに、旧記述の時、生徒に読ませるとかなりの高確率で「ゆかにおはいり」って読むんですよね。ゆかにおはいり、だったら「反省させるため地下室に閉じ込めた」みたいになっちゃいますよね。(高齢の北海道人だったら「室(むろ)に入れられた」みたいな?)ただし、現代っ子には「とこにおはいり」でも説明が必要な子がたくさんいそうな気がします。だとしたら、原文はきっと「ベッド」なんでしょうから、いずれ「ベッドにお入り」あるいは単純に「もう寝なさい」などと、さらに表記が変わるかも知れませんね。(そのころまで教師をやっているかどうかは別として)閑話休題

以前載せました授業でのQ1「あなたなら猫のせいもしくは悪いやつのせいにするか、それともちゃんと告白するか」に対するA1は、「ごまかすか、きちんと告白するか」の二択であり、(道徳的にどうかは別として)まぁどちらも「ありうる答え」でした。これは発問としても答えるにしても、さほど難しくはないので、かなり重要だけどまぁちょっとした授業の中のアクセントになる発問です。(ちなみに私は「できればごまかす」と答えるダメ人間に親近感が持てます。自分自身が意志の弱い人間だから、ということもあるけれど。)

それに対し、99%の国語教師がするであろうQ2「主人公はなぜ最後に自分の集めたチョウを粉々につぶしてしまったのか?」に対するA2、これがもう「みんな違ってみんな良い」の典型的な回答でして、逆に言えば「テストでは出せない問題」です。(ワークそのままの問題を出していて、ワークの解答以外は認めないという先生もごく稀にいるでしょうが、このA2は、明らかに解答ではなく回答ですよね。)

だいたい毎年このような回答が返ってきます。

①チョウを見ると今日のことを思い出してしまいツライから目の前から消してしまいたい(トラウマ解消型)

②チョウを見るとエーミールのドヤ顔が浮かんできて腹が立つからつぶしてしまった(逆ギレ八つ当たり型)

③チョウ集めなんてしたからこんな嫌な思いをしたので、チョウ集めからすっぱりと手を切ろう(原因追及決別型)

④自分の大事なチョウをつぶすことでエーミールの気持ちを味わって反省しよう(追体験反省型)

⑤自分には蝶集めをする資格がないと思い自分自身の戒めとして潰してしまおう(自己批判型)

⑥結局エーミールはおもちゃも何も受け取らなかったから、せめて自分のチョウをつぶすことで償いをしよう(懺悔賠償型)・・・

と、だいたいこれくらいの読み取りが出てきて、どれもイイ回答になる、非常に面白い部分です。ただし、人気で言うとだいたい①、②が多くて、⑤の「償いをする」という考え方は、あまり賛同を得られない傾向があります。(多分生徒の多くがエーミールのことがキライで、腹が立ったという読み取りが強くなるのではないかと思ってます。)ところで私は逆に、個人的に⑥を一番強く推しています。なぜかというと、前述したとおり(いまだに迷っている)ある箇所の読み取りを、「自己満へそ曲がり流」に読解すると償いの気持ちが強く感じられたからです。その箇所とは以下の部分です。

壊れた羽は丹念に広げられ、ぬれた吸い取り紙の上に置かれてあった。しかし、それは直すよしもなかった。触角もやはりなくなっていた。そこで、それは僕がやったのだ、と言い、詳しく話し、説明しようと試みた。すると、エーミールは、激したり、僕をどなりつけたりなどはしないで、低く「ちぇっ。」と舌を鳴らし、しばらくじっと僕を見つめていたが、それから、「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな。」
と言った。

一番盛り上がるシーンですが、この「言い」「話し」「説明しようと試みた」の部分の読解が、どうもイマイチはっきりと割り切れない。へそ曲がり流の読解では、この太字の部分は三種類の違った読み取りができると思うのですが、ちょうどお時間となりました。そのあたりの読解については次回に回させていただきますので、お暇でしたら読んでやってください。お後がよろしいようで。

「少年の日の思い出」の思い出その③

皆さんご存知のこの小説は、主人公が闇の中で、自分の集めたチョウの収集を一つ一つ指で粉々につぶしてしまうシーンで終わります。

僕は、そっと食堂に行って、大きなとび色の厚紙の箱を取ってき、それを寝台の上にのせ、闇の中で開いた。そして、ちょうを一つ一つ取り出し、指で粉々に押しつぶしてしまった。

なぜそうしたのか?という理由については次回触れようと思いますが、もう一つこのシーンで大切なのは「闇の中で」つぶしていたことだと思います。つまり、想像するしかないのですが、「主人公はどんな表情でつぶしていただろうか?」なんてことを考えてみるのも重要な読み取りではないでしょうか。苦悩に歪む表情なのか、泣き顔でつぶしているのか、能面のような無表情でつぶしているのか・・・さすがに笑いながらつぶしていると考える生徒はいないでしょうが、ここで「カオナシ」で終わらせているあたりは、作者ヘッセの計算だろうと思います。

とともに、この場面って既視感がありませんか?そうです。ビフォーアフターのアフターパートの最後のシーンです。つまり

彼は、ランプのほやの上でたばこに火をつけ、緑色のかさをランプにのせた。すると、私たちの顔は、快い薄暗がりの中にしずんだ。彼が開いた窓の縁に腰掛けると、彼の姿は、外の闇からほとんど見分けがつかなかった。私は葉巻を吸った。外では、かえるが、遠くから甲高く、闇一面に鳴いていた。友人は、その間に次のように語った。

のシーンです。「カオナシ」その1ですね。現在のシーンの最後と、回想シーンの最後を、どちらも「暗闇の表情を見せない」ことでそろえる、という設定は、これは日本語訳どうこうということで変わりはないでしょうから、明らかにヘッセが、全体の構成を意識してあえてこうしたのではないでしょうか。(変なものに例えるならば、お笑いの世界でいう「天丼」ってやつにちょっと似てるかも。)現在のシーンでの主人公は、どんな顔をしているでしょうかね。苦笑いの表情なのか、懐かしい表情なのか、恥ずかしいと言っているとおり羞恥心にみちた表情なのか。「世界観がぶちこわしにならない限り想像を膨らませるのは全然アリだ。」と生徒には指導していますが、はっきりいって私にもよくわかりません。でも、どれもアリだと思います。「みんな違ってみんな良い」的な読み取りのできる、こういうシーンがやっぱり教えていて面白いんですよね。ところで、このビフォーパートのラスト「なぜそうしたのか」の読解について、以前から微妙に読解になやんでいる表記があります。その表記について次回述べようと思いますが、皆さんはいかがお思いでしょうかね。お暇でしたらお考えをコメントいただけるとありがたいです。それではまた、次回その④でお会いしましょう。

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ごめんなさい。こういう時どんな顔すればいいかわからないの。

 

「少年の日の思い出」の思い出その②とお詫び

えー、まことに申し訳ありませんが、前回アップした「少年の日の思い出」の思い出①の中に、改めて読み直すと重大な誤りがあったことがわかりまして、ここに訂正させていただきたいと思います。(汗)

何のことかというと、昔の思い出に、実にもっともらしいうそをついた生徒のことを取り上げ、「鋭い読み込みだ」と賞賛した、と書きましたが、今回ふと気になってもう一度読んでみましたら、生徒も、そして何より私の方でも大いなる勘違いしていたことが判明しました。「前羽」の一件についての記述の、前段と後段を列挙してみます。

【前段(盗んだチョウをポケットから出す場面)】クジャクヤママユはつぶれてしまったのだ。前羽が一つと触角が一本、なくなっていた。ちぎれた羽を用心深くポケットから引き出そうとすると、羽はばらばらになっていて、繕うことなんかもう思いも寄らなかった。盗みをしたという気持ちより、自分がつぶしてしまった、美しい、珍しいちょうを見ているほうが、僕の心を苦しめた。微妙なとび色がかった羽の粉が、自分の指にくっついているのを見た。また、ばらばらになった羽がそこに転がっているのを見た。

【後段(エーミールが修繕したチョウを見る場面】壊れた羽は丹念に広げられ、ぬれた吸い取り紙の上に置かれてあった。しかし、それは直すよしもなかった。触角もやはりなくなっていた。そこで、それは僕がやったのだ、と言い、詳しく話し、説明しようと試みた。

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はい、お恥ずかしい話ですが、前段を読んだ時に、私もその生徒も「前羽が一つなくなっていた」というのを、文字通り「無くなっていた」と思ってしまっていたんですね。改めてちゃんと読むと、なくなった前羽=ちぎれた羽=壊れた羽、であり、どこかに行ってしまったわけではない。だから「猫がくわえていた」という嘘は、逆に矛盾していて命取りになる嘘だったわけです。後段の、触角も「やはり」なくなっていた、の「やはり」を、「案の定」の意味ではなく「〇〇もまた同様に」の意味だと思っていたのも、二重の勘違いでした。ざっと今から二十年くらい昔の生徒の話なので、今更訂正もできませんが、あと何回教えるかわからないけど、次回は変な教え方をせずにすみそうです。数少ない読者の皆様には改めて勘違いとお詫び申し上げます。

負け犬の遠吠えで言わせてもらえば、「なくなっていた」ではなく「もげていた」くらいに書いてくれていれば、こんな勘違いをせずにすんだのに!qあwせdrftgyふじこlp;@:「」!・・・(人呼んで逆ギレ)しかし、考えてみれば原文のドイツ語を訳するにあたって、訳者の高橋健二氏も、「壊れた」「ちぎれた」「取れた」「なくなった」「消えた」・・・その他諸々の似たような日本語から、何を使うのがいいのか相当悩まれたんじゃないのかな、と改めて思います。そもそも一人称の「ich」を何にするか。私?僕?俺?おいら?同じ少年でもずいぶんイメージが変わりますね。ましてやこの「少年の日の思い出」は、同じ人物のビフォーアフターだからちょいとややこしい。改めて、外国文学の日本語訳を、どこまで突っ込んで読解するかの難しさを感じました。じつは以前から一カ所、ここの日本語訳をどう解釈したらいいか迷っているところがありまして、そのあたりの葛藤もいずれ書かせてもらおうと思います。次回は「少年の日の思い出」の、カオナシの話など。(これでピンと来る方、いらっしゃいますかね?)それではまた、お暇でしたらご覧ください。

 

「少年の日の思い出」の思い出その①


それにしても、考えて見れば毎年何万人という中学生が読み、そしてもう何十年も続いているのだから、「少年の日の思い出」とか「故郷」とか「走れメロス」とか、ものすごいロング&ベストセラーなんですね。日本のほとんどの人が読んでいる、と言っても過言ではない。世界一のベストセラーは「聖書」だと聞いたことがありますが、日本だったら間違いなく教科書の中の作品、でしょうね。(「オッペルと象」→「オツベルと象」は無くなりましたが。しかしなんで名前変わったんだろう?)逆に言えばこれらの教材を取り上げるのは、かなり勇気が要りますね。きっと私の知らないところで、微に入り細に入り研究されていることだろうし。そうことを知らぬ存ぜぬで、好き勝手書くため「自己満へそ曲がり流」を名乗っております。(←ひでぇケツのまくり方)

さて、「少年の日の思い出」は、いうまでもなく日本語訳なので、原文のニュアンスとは違っているところもあるでしょうし、日本語訳そのままで読解しても、ヘッセの意図と違ってくる可能性があることは重々承知です。それを踏まえたうえで、幾つか授業の中の思い出と、自己満へそ曲がり流の読解について触れていきたいと思います。

毎回の授業の中で必ず投げかける質問が幾つかありますが、まずはQ1、「母親に諭されて、行きたくなかったエーミールのところに行きました。するとエーミールは『誰かがクジャクヤママユをだいなしにしてしまった、悪いやつがやったのか、あるいは猫がやったのかわからない』と言いました。どうやら主人公がやったことには気づいていないようです。さて、あなたならどうしますか?」・・・私自身が「薄汚れた心の持ち主」なので、リアルだったらかなりの確率で「猫のせい」にするだろうなぁ、と思いつつ(ひでぇ奴だな)生徒に聞くと、やはりなんというか荒れた元気の良い学校だと「猫のせい」「悪いやつのせい」にする割合が高かったような気がします。ところが一番近くに聞いた学級だと、(そんなにお上品な学校でもないのですが)猫や悪いやつのせいにする生徒が2~3人しかいなくて、「ちゃんと自分がやったと言う」という生徒が圧倒的に多かったし、「私だったら猫のせいにするけど?」と投げかけると、リアルに引かれてしまいました。(よごれつちまつた悲しみに・・・)そんな中、かなり昔の生徒に、とてつもなくナチュラルボーン嘘つき読解力と創造力のたくましい子がいまして、こんな内容のことを言いました。

「猫のせいにします。主人公はつぶれた蛾を戻したときに、前羽が一つなくなっていることに気づいているので、エーミールに『さっき猫がクジャクヤママユの前羽みたいのをくわえて歩いているのを見たから、ひょっとしたら君のを盗ったんじゃないか?と思って来てみたんだ。やっぱりそうか。あの猫めぇ!』とか言えば、夜にいきなりエーミールの家に来たことも、チョウを見せてくれと言ったことも、ごく自然にごまかせると思います。」

・・・だ、そうです。聞いていた他の生徒は「おお~っ!?」とどよめきましたし、私も「うーん、鋭い読み取りだ。」と一応褒めましたが、正直この子の将来が心配です。頭は良かったけど、詐欺師とかになってないだろうなぁあの子?・・・では、次回は授業の中で必ずする発問その2について書いてみようと思います。

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どう考えてもこんなのがこっちに飛んできたら逃げ惑うわ

 

教科書の中の微妙な表記の変化について

さて、前回「星の花の降るころに」の凡ミス(自習時間の後に「給食なしで」いきなり昼休みになっていた点)について、教科書会社に電話したときに、せめて「自習時間」を「給食時間」に直すだけで解決できますよ?と一応提案したのですが、採用されなかったみたいですね。「昼休み」を「休み時間」にすることでもよさそうですが、主人公はそこそこ長い話になることを想定していたでしょうから、ここは「昼休み」でなくてはいけない。となるとやはり給食時間からの昼休みにしてほしいところです。(給食時間の終わりに、教室内で騒いでいる生徒がいることが、良いか悪いかは別として・・・)

話変わって、前回説明的文章の「モアイは語る」についても、いろいろと思うところを述べさせていただきました。何度かの教科書検定を経て、結構なロングセラー?の教材になっていますが、ある一カ所で微妙に表記が変わっていまして、なぜなんだろう?と疑問に思っていました。その表現とは何かというと

(旧表記)このまま人口の増加が続いていけば、二〇三〇年には八十億を軽く突破し、二〇五〇年には百億を超えるだろうと予測される。

(現表記)このまま人口の増加が続いていけば、二〇三〇年には八十億を軽く突破し、二〇五〇年には九十億を超えるだろうと予測される。

という違いです。私自身は非常に大雑把な性格だし、まぁ十億くらいどうでもいいや、と流すこともできるのですが、これが(旧表記)九十億→(新表記)百億ならば素直に納得なんですが、実際の表記が(旧表記)百億→(現表記)九十億と、逆なのが腑に落ちない。この何度かの検定の間に、人口増加の割合が下がってきた、ということなのか?しかしそんな話は聞いたことがないんだがなぁ?

ということでグーグル先生に聞いてみると、あるサイトでの二〇五〇年の予想は九十八億人、となっていて、まぁ「九十億を超えるだろう」は合っているんですけど、だったらそれ以前の「百億」という数字はどこから出てきたのだろうか?などということが引っかかるんですよねぇ。(偏執狂まっしぐらで恐縮ですが)

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似たような話をもう一つ。これまたロングセラー?でベストセラー?の、ヘルマン・ヘッセ作、髙橋健二訳の「少年の日の思い出」の中からです。お読みいただいている方々は覚えていらっしゃいますかね?あなたが覚えている、「僕」が「エーミール」のところから盗み、はずみでつぶしてしまったのは、「何という虫」の標本でしたか?

ヤママユガ」と答えたあなた、きっとかなりなご高齢ではナイスミドルですね。若い現役世代は「クジャクヤママユ」と答えるんですよ。ご存じでしたか?改めて確認しましたが、旧教科書も現行教科書も「髙橋健二訳」とあるので、きっとなんらかの事情で教科書会社の方で変えたのだろうと思います。(ここで本来なら原典のドイツ語表記にあたってみれば良いのですが、そんな熱意も向学心もないのが申し訳ない。第一、大学で第二外語ドイツ語を取ったはずなのに、グーテンモルゲンとグーテンタッグとダンケシェン、くらいしか覚えていないのが何というか情けない。あ、あと小池某のおかげでアウフヘーベンも。・・・あれ?シュワルツランツェンレイターって何だっけ?)

勝手な推論として、おそらく私自身がそうだし、結構そう言っている生徒も多いのですが、「蛾が嫌い」だからじゃないか?と仮説を立ててみました。いや、生徒の中には、ワークブックに載っているヤママユガクジャクヤママユの写真を見るだけで悲鳴を上げる子もいたりするんですよ。だから少しでも「蛾」っぽさを打ち消すために、ちょっと綺麗っぽいイメージのある「クジャクヤママユ」と表記を変えたんじゃないのか?そこにはひょっとしたら生徒からの苦情なんかも影響してるんじゃないのか?なんてくだらないことを考えていました。(世の中のほとんどの方の答えは「どうでもいい」だとは思いますけどね。)と、ここまで想像したところで「グーグル先生」に聞いてみると、こんな記述がありました。(ナンデモシッテルグーグルセンセイスゴイ)

ドイツ文学者であり、虫屋でもある岡田朝雄氏によれば、クジャクヤママユという蛾には3種あり、それぞれオオクジャクヤママユ、クジャクヤママユ、ヒメクジャクヤママユと言われる。そのうちオオクジャクヤママユは少年のポケットに入れるには大きすぎ、ヒメクジャクヤママユはそれほど珍しい蛾ではないことから、物語の蛾はクジャクヤママユが妥当だと推測している。

・・・なるほど。「ヤママユガ」で画像検索すると、とてもポケットに入りそうもない巨大な蛾がヒットしてきます。(15センチくらい?)うーむ、お好きな方にはたまらないかと(©西原理恵子)思いますが、私にはかなり気持ち悪い。いくら「思わず」とはいえ、ポケットに入れるなんて信じられない。鳥肌が立つ。結局、「サイズ」というまことに現実的な、そして学術的な裏付けによって、「ヤママユガ」という大雑把なくくりから、リアルな「クジャクヤママユ」という表記に変わった、ということが分かりました。やっぱり餅は餅屋ですね。何かの本で(ギャラリーフェイク、だったかな?)蝶の収集は金持ちの究極の趣味、みたいなことが書いてあったと思いますけど、何事もヲタクマニアの方の知識ってのはつくづく凄いと感心しました。

そういえば、「昆虫の写真が気持ち悪い」とか言われて、ジャポニカ学習帳の表紙から昆虫のアップの写真が消えて花になった、なんてニュースも昔ありましたよね。今どうなってるのかな?

では、話のついでに次回から「少年の日の思い出」についての話など書いていこうと思います。お時間があればおつきあいください。どっとはらい

 

 

 

「モアイは語る」についての「禁断?の授業」

2年生の説明的文章で「モアイは語るー地球の未来」という題材があります。以前のブログで「筆者のドヤ顔がうかがえる」という、見ようによってはまことに失礼な内容を書かせていただきましたが、今年度の授業をするにあたって、とうとう教科書の扱いのタブーにふれてしまいまして、教育委員会に呼び出されて、「メッ!」ってされるかもしれません。何かというと、モロに教科書の内容をひっくり返したYouTubeを生徒に見せました。(もちろん一通りの学習を終えて、参考資料として見せたわけですが)まぁ生徒の「今までの授業は何だったんだ!?」感の漂うこと漂うこと・・・

ところで、私自身もこの「モアイは語る」については、かなり昔からちょっと疑問を感じていました。一つは、本当にヤシの木のコロで、「溶岩だらけの火山島を十キロも二十キロも運」ぶことが可能なのだろうか?ということです。相当の大きさと重さのあるモアイを、ヤシの木のコロで運んだら、ヤシの木が潰れてしまって動かなくなるのではないか?と以前から疑問視していました。で、これについてはもうかなり前から、あるテレビ番組(何だったかも思い出せない)で、「モアイを歩かせる」斬新な方法で移動させる映像を見て、「これだ!」と思い、インターネットで動画を探して、授業が全て終わってから生徒に見せて締めくくりにしていました。左右と後ろの三カ所で縄でつないだモアイを、左右に揺さぶりながら少しずつ前に進めていく方法は、私たちも重いものを移動させるときによく使う手法です。コロよりはずっと手間がかからないし、木を切る必要も無いので、私はこちらの「モアイを歩かせる」方法がすっと腑に落ちました。画像を見終わったあと、歩かせる方式だったと考える生徒の方が圧倒的に多かったです。実際にどうだったのかははわかりませんけれど、この段階で「教科書批判」ととられるのならば、「禁断の?授業」だったと言えるでしょう。(「教科書批判」ととられておしかりを受ける危険性は感じつつも、知ってることは教えたがるあたりが自己満へそ曲がり流。)

二つめとしてはこの表現→「人口は100年ごとに二倍ずつ増加し、十六世紀には一万五千から二万に達していたと推定されている」という記述と、「十一世紀に人口が急激に増加を始めた」の整合性です。十六世紀に二万と書いてありますが、ならば逆算してして、単純な倍々ゲームだったとしたら十五世紀は一万、十四世紀は五千、十三世紀は二千五百、十二世紀は千二百五十・・・十一世紀には千人以下だったことにならないか?そんな人数しかいなくていきなりモアイを作り始めたりするだろうか?などということも引っかかっています。(まぁもちろんこれは単純な倍々ゲームではなかったのでしょうが、理屈バカの典型例ですね。)

三つめとして、「ヤシの花粉の量は、七世紀頃から、徐々に減少していき」と書いてありますが、モアイを作り始める四〇〇年前から徐々に減少していたのなら、作り始めた十一世紀段階で既にかなりヤシの木は枯渇していたことにならないか?というあたりも引っかかります。本当にヤシの枯渇がイースター島の文明崩壊の原因なのだろうか?などとモヤモヤしたままずっと授業をしてきましたが、今年度ひょんなことからイースター島にかかわる、あるYoutubeを見ていたら、何と「最新の学説」として、前述の「歩かせて移動させた」説とともに、イースター島の人々がいなくなった原因として、「奴隷商人による拉致」+「その際に持ち込まれた疫病」が原因、という説が紹介されていたのです。正直どちらも個人的には教科書の内容よりずっと信憑性が高いように見えました。教科書の記述を否定する気持ちも、筆者をディスるつもりもありませんが、今年の生徒には全ての授業が終わってからその新説のYoutubeを見せ、「信じるか信じないかはあなた次第です」と授業の締めとしました。余計なことをしたのかなぁ。でも事あるごとに「教科書だろうが何だろうが、盲目的に信じるのはやめろ」と言ってきた手前、自分が知った以上伝えるべきだろうなぁ。うーん。

(・・・と、迷ったふりこそしていますが、今までも散々国語の教科書の表現や内容のおかしな所を指摘してきたんですから。ナニヲイマサラ、ですよね。)

ちなみに、前回残した凡ミスですが、皆さんおわかりでしたか?(もしおわかりでない方のためのヒント「普通の中学校ならもれなくあるはずの何かが、この学校にはない」ということです。その一文がこれです。)

自習時間が終わり、昼休みに入った教室はがやがやしていた。

それではまた、よろしければ次回も読んでやってください。

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「星の花が降るころに」についての考察その4

ご覧くださっているごく少数の皆様。お待たせしました。お待たせしすぎたかもしれません。さて、いかにネタが少ないとはいえ、見え見えの引っ張りはこれくらいにして、いきなり本題に入ります。前回提示しました「星の花が振るころに」の中のこの表現、サッカーボールはぬい目が弱い。そこからほころびる。だから砂を落としてやらないとだめなんだ。使いたいときだけ使って、手入れをしないでいるのはだめなんだ。いつか戸部君がそう言っていたのを思い出した。」が暗示しているであろうこと。それはズバリ!

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「対人関係」のことでしょう!(あ~あ、言い切っちゃったよ。)この話の中の夏実と主人公の関係、つまり「小さな誤解やすれ違いを繰り返すうちに、何となく疎遠になってしまったこと」「それを何とかとりつくろおうとしてもうまくいかなかったこと」を、「サッカーボールの縫い目」で象徴しているのだと、「自己満へそ曲がり流」読解では考えます。つまりこう読み換えられるのではないか?と考えました。↓

「サッカーボールは縫い目が(=人間関係はもともと別々の人格が合わさっているのだからつながりが)弱い。そこから(=だから人間関係はちょっとしたことで)ほころびる。だから砂を落としてやらないと(=常にどんな状態か気をつけていないと)だめなんだ。使いたい時だけ使って、手入れをしないでいる(=自分の都合の良いときだけ友達関係を主張しようとする)のはだめなんだ。」

・・・どうでしょう?まぁ「こじつけだ!」と言われればそうかもしれませんが、いかにも作家先生が使いそうな暗示、隠喩じゃないですか?無くても話が通るのに、わざわざ内容に関係なさそうな記述を入れる理由はこれだと思い、生徒には「これって何かに似てないかい?」と投げかけています。(まぁこの投げかけですぐピンとくる生徒はほとんど、というか皆無だったかな?)結局は講義型の授業になってしまうんですけれど、これを中学1年から引き出すスキルは、残念ながら私にはありませんでした。みなさんはどうお考えですか?

私はよく教材の小説を一言で「〇〇がXXになる話」とまとめて終わることが多いのですが(「夏の葬列」は「心のわだかまりを軽減しようと思ったらむしろ倍になってしまった話」とまとめました。)この「星の花が振るころに」は、「二人で安全地帯にこもっていた主人公が一人で出て行く話」とまとめることができるかと思います。ところでこの話の時期は9月、つまり夏が終わり秋に向かうころの話ですが、ひょっとしたら「夏実と別れる」というのも「夏から脱却する」「夏の実が落ちて秋になる」ということの暗示なのではないでしょうか?・・・さすがにこの名前についての推論は「ゲリマンダー的」「我田引水」と言われますかね。でもまぁこういうくだらないことを、色々考えられるのが、国語という教科の懐の深さ面白さだと私は思っています。いいんですよ国語は、どんどん自由に発想しても。世界観がぶち壊しにさえならなければ。(イイノカネカッテニソンナコトイッテ)

で、このよくできた小説ですが、たった一カ所凡ミスがあり、これを例によって、今度は光村図書に電話したわけですが、反応は例によって、「参考にさせていただきます。上の者には伝えておきます。ツーツー。」でした。ただ、前回の2つと違って、今回の凡ミスは、生徒に何ページにあるかだけ伝えれば、結構多くの生徒があっさり見つけられる内容です。皆さんにもそのページ(見開き分)を載せておきますので、「凡ミス」を見つけてみてください。(※ただし、凡ミスとは言え、佐野洋的に言えば「これを裁判所で証言したら絶対負けますよ。」レベルの事柄です。)では読んでみてください。

 銀木犀の花は甘い香りで、白く小さな星の形をしている。そして雪が降るように音もなく落ちてくる。去年の秋、夏実と二人で木の真下に立ち、花が散るのを長いこと見上げていた。気がつくと、地面が白い星形でいっぱいになっていた。これじゃふめない、これじゃもう動けない、と夏実は幹に体を寄せ、二人で木に閉じ込められた、そう言って笑った。

 ──ガタン!
 びっくりした。去年のことをぼんやり思い出していたら、机にいきなり戸部君がぶつかってきた。戸部君は振り返ると、後ろの男子に向かってどなった。
「やめろよ。押すなよなあ。俺がわざとぶつかったみたいだろ。」
 自習時間が終わり、昼休みに入った教室はがやがやしていた。
 私は戸部君をにらんだ。
「なんか用?」
「宿題をきこうと思って来たんだよ。そしたらあいつらがいきなり押してきて。」
 戸部君はサッカー部のだれかといつもふざけてじゃれ合っている。そしてちょっとしたこづき合いが高じてすぐに本気のけんかになる。わけがわからない。
 塾のプリントを、戸部君は私の前に差し出した。
「この問題わかんねえんだよ。『あたかも』という言葉を使って文章を作りなさい、だって。おまえ得意だろ、こういうの。」
 私だってわからない。いっしょだった小学生のころからわからないままだ。なんで戸部君はいつも私にからんでくるのか。なんで同じ塾に入ってくるのか。なんでサッカー部なのに先輩のように格好よくないのか。
「わかんないよ。そんなの自分で考えなよ。」
 隣の教室の授業も終わったらしく、椅子を引く音がガタガタと聞こえてきた。私は戸部君を押しのけるようにして立ち上がると廊下に向かった。

 

・・・もう皆さんおわかりだと思いますが、一応答えは次回にさせていただきます。「結局引っ張るのかよ!」とお思いでしょうが、教科書や国語の授業だけに限定すると、そうそうネタはないのですよ。それではまた次回、よろしければ見てください。

 

「星の花が降るころに」についての考察その3

改めて言うのも変ですが、私はほとんど教材研究をしたり、指導書見たりはしません。その上で、教科書の文章表現だけから以下のことを述べています。したがって、ちゃんと教材研究をしていたり、指導書を確認している先生方にとっては、今私の書いている内容なんて「そんなの当たり前に教えているよ。」とか「普通に指導書に載っているよ。」というものになっているかもしれません。だとしたら「ゴメンナサイ」。基本的に、私が在籍した今までの学校の、同僚の先生が教えていないような内容を取り上げています。(でも考えてみたら、こういう言い方をすると同僚の先生をディスってることになってしまうなぁ、うーん・・・)

前回は、主人公が気づかないうちに、格好よく成長していた戸部君が、主人公に語ったセリフについて考察する、という所で終わっていました。私は最初にこの小説を読んだ時、このセリフに以前このブログで書いた「違和感」をかなり強く感じました。というか、このセリフが無かったとしても、全然前後が普通につながるはずなのに、なぜこんな持って回ったような表現を作者は入れたのか?作家が書いた表現には、必ず何らかの意図がある、という前提で読んでいくならば、この一見無駄に見える記述にも何か裏の意味があるはずだ。そう考えて読み直し、そしてこの記述が話全体の大切なテーマに関わる事柄の「暗示」あるいは「隠喩、暗喩」になっていることに気づきました。前回触れたように、今までの同僚でそのことに触れて授業をしていた先生はまずいなかった(あくまでも当社比です!)ので、恐らく中学生レベルでは不要な読解なのかと思いますが、自己満へそ曲がり流では、気づいたら教えずには済ませられない性分(この辺が偏執狂自己満的)なので、生徒に振ってみました。まずその表現を前後の流れも含め抜粋してみます。

 戸部君の姿がやっと見つかった。

 なかなか探せないはずだ。サッカー部の練習をしているみんなとは離れた所で、一人ボールを磨いていた。

 サッカーボールはぬい目が弱い。そこからほころびる。だから砂を落としてやらないとだめなんだ。使いたいときだけ使って、手入れをしないでいるのはだめなんだ。いつか戸部君がそう言っていたのを思い出した。

 日陰もない校庭の隅っこで背中を丸め、黙々とボール磨きをしている戸部君を見ていたら、なんだか急に自分の考えていたことがひどく小さく、くだらないことに思えてきた。

上記のうち、下線の部分って、無くても普通につながりませんか?削るとこうです。

なかなか探せないはずだ。サッカー部の練習をしているみんなとは離れた所で、一人ボールを磨いていた。日陰もない校庭の隅っこで背中を丸め、黙々とボール磨きをしている戸部君を見ていたら、なんだか急に自分の考えていたことがひどく小さく、くだらないことに思えてきた。

下線部は、不自然とまでは言わないし、戸部君が意外と物を真面目に考える一面があるんだ、という性格描写とも考えられますが、他の生徒が練習している中で一人ボール磨きをする行為だけでも、十分「意外と」真面目だということは伝わりますよね。だとしたら・・・「作者がわざわざこの太字の部分を付け加えた理由は何だと思う?」・・・チーン。はい、まぁ生徒のポカーンとした顔ときたら。とはいえ、これをお読みいただいている方で、「星の花の振るころに」をお読みでない方ならば、やはりポカーンですよね。では、遅まきながらあらすじを紹介させていただきます。

「中一の主人公は、公園の銀木犀の、まるで丸屋根のような枝の下で、親友の夏実と二人だけの世界に浸っていた、去年の秋のことを思い出していた。地面に散った星形の白い花に囲まれ、「これじゃ踏めない ここから出られない 二人で木にとじこめられた」と言って笑ったことを思い出していた所に、小学校から一緒だった戸部君がぶつかってきた。「あたかも」がどうしたこうした言っている戸部君を後にして、昼休みになったのをきっかけに、隣のクラスの夏実に話しかけようとして廊下に出た主人公。実は中学に上がってから、最初は一緒に帰っていたのに、小さなすれ違いや誤解を繰り返すうちに、別々に帰るようになってしまい、疎遠な関係になっていたのだ。今日こそは話しかけようと、ポケットに入った去年の秋拾った銀木犀の花を入れた袋を撫でながら、夏実が来るのを待つ主人公。そして現れた夏実に話しかけようとしたのと同時に、夏実は今のクラスメートからも声をかけられ、戸惑いながらも主人公から顔を背け、その友達と一緒に通り過ぎていった。呆然とする主人公が、はっと我に返ると、教室から戸部君がこちらを見ているのに気づく。泣きそうなのをごまかすため、窓から外を見て、友達を探すふりをする主人公。本当は夏実以外に友達なんて呼びたい人はいないのに。放課後になり、主人公は「どこまでわかっているのか」を探るために、サッカー部の戸部君を探す。ところが戸部君は一人で熱心にボール磨きをしていた。自分の考えがちっぽけに感じた主人公が水で顔を洗い冷静さを取り戻した所に、戸部君が話しかけ、ジョークで主人公の心をなごませてくれる。その後、学校からの帰りに銀木犀のある公園を通ると、公園掃除のおばさんと出会い、常緑樹である銀木犀も、実は古い葉を落として新しい葉を生やしていかないと生きていけないことを教わる。主人公は銀木犀の木を下から見上げ、ポケットの去年の銀木犀の花を取り出し土の上にパラパラと落とし、「きっと何とかやっていける」と新たなきもちになり、銀木犀の木の下から歩きはじめる。

うーん、大事な表現をかなり省いてしまったので、ちょっと読解するのは厳しいと思いますが、どうでしょう?「作家は無駄なことは書かない。違和感を感じる表現には必ず裏の意味がある」理論で言うと、上で書いた「サッカーボール」の話には、絶対に作者が裏の意味、何らかの内容に関連する暗示(隠喩)を入れているはずだし、作者はそう読み取ってもらいたがっていると思うのですが。この「自己満へそ曲がり流」読解はまた次回書かせていただきます。併せて、この良く出来た小説の、たった一カ所の凡ミスについても。それではまた、お時間があれば読んでください。

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「星の花が降るころに」についての考察その2

さて、色々突っ込んで読みたいところが満載のこの小説ですが、調査したわけではないし、詳しく教材研究をしたり、指導書を読んだりもしていないけれど、単純に文章表現だけから読解して、「ここ面白いところなんだけど、あまり触れている先生がいないなぁ」という箇所が結構あります。なぜ他の先生のことが分かるかというと、授業が終わった後で、他の国語の国語の先生の板書を見るのがルーティーンだからです。(チャントウチアワセスレバイイダケナノニネェ、ヒソヒソ)板書を見れば、おおむね教えている内容は想像がつきます。(もちろん、板書せずに口頭で触れている場合もあると思いますけれど。)で、前回書いた「戸部君が押されて主人公にぶつかってきた時」の話ですが、ぶつかってきて、「この問題わかんねえんだよ」と聞いてきた戸部君をにらんだ主人公が言うセリフ。

私だってわからない。いっしょだった小学生のころからわからないままだ。なんで戸部君はいつも私にからんでくるのか。なんで同じ塾に入ってくるのか。なんでサッカー部なのに先輩のように格好よくないのか。

・・・99%の先生が、この3つの疑問について生徒にこう発問するでしょうし、学級によりますけど多くの生徒はこう答えるでしょう。

発問1「なんで戸部君はいつも私にからんでくると思う?」答え「主人公のことが好きだから!」(若干名「え!そうなの?」と驚く生徒がいるのがデフォ)

発問2「なんで同じ塾に入ってくると思う?」答え「主人公のことが好きだから!」(発問1より多めの生徒が「え!そうなの?」と以下略)

で、発問3は結構難問で、「なんでサッカー部なのに先輩のように格好よくないと思ったと思う?(言い方!)」答え(かなりシャレっ気のある生徒が)「私だってわからない。」(←この答えはセンスがあると思いましたね。)

(かなり読解力のある生徒がおずおずと)「サッカー部のだれかといつもじゃれあっていて、本気の喧嘩とかばかりしてるので、先輩と比べてガキくさく感じたから。」

うん、中学生の回答としてはこれで満点だと思います。しかしながら、「自己満へそ曲がり流」の読解ではもう少し突っ込んだ回答を期待したい。それは何かというと(まぁいないと思いますが、もしこのブログを読んでくれている、中学生の読者がいたら考えてみてください。)こういう読み取りを期待したい。

「気づいてないだけ」

・・・なんだそりゃ?と思うでしょうね。事実今まで他の先生の授業後の黒板を覗いて見ても、「ガキくさい子供っぽいと思っていたから」という板書はあっても(1割くらい)「気づいてないだけ」という板書は見たことがありません。だから、そこまで教えている(私のような自己満でへそ曲がりの)先生はあまりいないのだと思います。ただ、私的にはこの「本当は格好よくなってたんだけど、主人公が気づいていないだけ」という見方は、後々テーマにも関わってくる大事な読み取りだと考えています。この小説の最も大切なテーマは、「主人公の気づきと成長」だからです。

では、主人公の「格好よさ」はどのあたりからうかがえるか。これについてはほとんどの先生が触れていると思います。(以下、教科書を読んだ人限定になってしまいますが悪しからずご了承ください。)

①主人公が「繊細さのかけらもない」と思っていた戸部君が、凹んでいた私を元気づけるために、「伏線を活かして」「自然な感じで」笑わせてくれたこと。←これってかなり繊細で高等なテクニックですよね。もしも「お前、夏実とトラブってただろ?大丈夫か?」なんてストレートに聞いたりしたら、主人公どうなっていたでしょうね?

②「ちゃんと向き合ったことがなかったから気づかなかったけれど、私より低かったはずの戸部君の背はいつのまにか私よりずっと高くなっている。」・・・いつのまにか「ガキくさいチビ助」じゃなくなっていることに、初めて気づいた瞬間ですね。それも「ずっと」高くなってて、格好いいじゃないですか。そして何といっても、

③「サッカー部のだれかといつもふざけてじゃれ合っている」はずの戸部君が、ふと気づくと、「サッカーの練習をしているみんなとは離れた所で、一人ボールを磨いていた。」「日陰もない校庭の隅っこで背中を丸め、黙々とボール磨きをしている戸部君」

・・・格好いいじゃないですか!主人公が「おい」と声をかけられただけで、ずっと耳になじんでいた声だからすぐわかる戸部君とは、まったく違う姿の彼がそこにいます。(声変わりしてないのかよ?という野暮なツッコミはなしにして)主人公が過去に囚われて足踏みしている間に、戸部君は実は格好よく成長していたんです。ただ、主人公は「ちゃんと向き合ったことがなかった」から、「気づいてないだけ」なんです。(そういえば、2年生の教科書の最初には「見えないだけ」という詩が載っていましたね。)

で、この③の時に主人公が思い出した、かつて戸部君が主人公に言ったセリフ。これについてもほぼ触れている先生がいなかったので(当社比)次回はこのセリフについて読解していきます。以前触れた「違和感」が大いに関係してきます。近日公開、お時間があれば読んでやってください。(ヤバイ!2000字を超えてしまった。駄文長文失礼しました。)ではまた。

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