ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

教職員組合ってのがありましてね。(慚愧と懺悔その1)

37年前、初めて勤めた中学校。まぁ最初に登校した時は緊張しましたなぁ。4月1日の最初の朝の打ち合わせで、とっちらかって何言ってんだかわからない様子でゴニョゴニョさえない自己紹介をし、何言ってんだかわからない最初の校長の施政方針演説?的な物が始まり、やがて学年や分掌の発表になった時、いきなり先輩教師の一人が「やめろやめろ!誰も聞いてないぞ!」と自席から大声を出したのにビビったところから、私の教師生活は始まりました。当時は何のことだかわからなかったのですが、次の年から「主任めいか(漢字を忘れました。「めい」は名だと思うのですが、「か」は加?課?何にしてもググってもでてきません。)」をする校長への抗議だということがわかりました。その当時、「主任制反対」「日の丸・君が代(略して日の君)反対」が、組合の活動として最も日常的なものでした。

さて、いきなりそんな罵声にビビり(ちなみにその先輩は、後に大校長になり、今でもお付き合いさせていただいていますが、当時は怖くて近寄り難かったです。)わけのわからない状況で昼休みになりましたら、同じ学年の先生に「ちょっと来て」と呼ばれ別室に連れて行かれました。そして、1教室びっしりに先生方が集まっていて、何だかよくわからないままに「組合員」にさせられていました。正直ノンポリもいいところだったので、「よく分からないけど、ほとんどの先生がいるんだから、まあそんな悪いことにはならないだろう。」くらいのぼんやりした気持ちで、特に拒否するわけでもなく(というか例の先輩が怖くて拒否も出来ず)そのまま組合員になり、教師生活が始まりました。

 

当時、その学校の組織率は多分8~9割くらい組合員だったと思います。ハッキリ言って組合という組織は、聞いたことはあるけど、「労働条件向上のために交渉とかする団体」くらいのイメージしかなくて、具体的にどんな活動をしているのか全くわからなかったのですが、まず先輩から何を言われたかというと、「職体(教職員による体育大会)があるから、春はバドミントンから始まるんで、放課後練習するから残ってね。靴とかジャージとか持ってきて。」ということでした。私は走るとかは苦手ですが、球技は卓球以外は大好きだったので、「こりゃあ楽しみだワイ❤」とばかりに、毎日部活が終わってから学校開放が始まるまでバドミントンの練習をし、同僚の若い先生と帰りがけ一緒に飯を食べたりして、とても気楽になじむことができました。また、先輩の先生方も、職体が終わった後欠かさず飲み屋で反省会、というか単純な飲み会を開いてくれ、いろいろな話を聞かせてもらって、とてもいいコミュニケーションがとれていたと思います。組合費は取られるし、飲み会の回数は多いしで、今考えれば結構な出費だったわけですが、それを補って余りある楽しみをえることができました。

いまでこそ私は、まぁ右翼と言っても良いくらいの思想傾向がありますが、当時はよく分からないまま、今は亡き社会党を支援し、勤務時間が終わったら「オルグ」と称して会合に出かけたりビラ配りをしたりという、今にして思えばまぁ赤面の至り。職員体育という甘い餌で釣って、構成員を増やしていくなんぞ、いわゆる「お左翼」の常套手段に軽ーく飲み込まれていたのです。(※もちろんこれは世間知らずでノンポリの私自身の責任です。)けれども、やはり職員体育は楽しかったし、先輩の組合員の先生は、夏休みに海水浴やキャンプ、冬には温泉&スキーなど、楽しい催しをどんどん与えてくれたのです。福利厚生という面では、確かに「組合」は魅力的でした。

ところが教師になって4年目、やっと卒業生を出し1年生を担任し、その生徒達を2年3年生と持ち上がって担任するんだろうなぁ、と思っていた矢先に、「引き受けてくれる人がいないから」という理由で、27歳の時に「分会長(各学校の組合の責任者?見たいな役職)にさせられてしまったのです。その前の分会長が、同じ部活動の顧問をしていて、とてもお世話になったので、とても嫌だったけれど引き受けざるを得ませんでした。今はどうか知りませんが、分会長は会議とかで校外に出ることが多く、担任をやらない、というのが不文律でした。今はもう定年間近なので、この2年間は副担任をやっていますが、担任から外れたのはこの分会長の時と、教科の持ち時間数の関係で、週23時間国語の授業を持った時だけです。(これだけ授業を持つと、担任をして学活や道徳を入れると空き時間がなくなるんですよ。)まだ若くて元気もあり、何より1回卒業生を出すと担任が面白くなってくるもので、当時は何だか理不尽さを感じずにはいられませんでした。

それでもよく分からないなりに、校長と「団体交渉」をして卒業式で国旗をあげないよう、あるいは国歌斉唱をさせないよう(起立もしませんでしたなぁ。あー赤面)3~4時間も膝詰めで話し合ったり、5月1日にはメーデーと称してプラカードを作って行進したり、「動員」を掛けられて北海道庁の階段に、何をするわけでもなくただ数合わせのために半日座り込みをしたりなどという活動をしました。次の年に分会長を代わってもらった時には、本当にほっとしました。

ツイート画像20枚あり。君が代のページを隠すおかしな先生の授業を受けた方々が多くて驚いています。 #密告したかった授業 #日教組撲滅 #全教撲滅  #日教組 #教科書 - #野党とマスコミは敵の手先

↑今だにこんなことやってるんですねぇ。探したら他にもたくさん出てきました。

とはいえ、一組合員としての活動は(基本職員体育が中心ですが)続けていたのですが、ある時ふぃっと組合に嫌気がさし、いきなり組合を脱退することにしました。長くなってしまったので、そのあたりの経緯はまた次回書かせてもらいます。駄文長文失礼しました。(今回はギャグも茶々も入れず、単純な思い出話を書きましたが悪しからず。多分次回も。)