ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室(と年寄の冷や水)

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

太宰治「走れメロス」についてのあれこれその⑥

以前このシリーズで書いたように、太宰はディオニスを、原典通りの「リアルガチ暴君」→改心、という流れではなく、善良→闇堕ち→善良、という意識の変化に書き改めました。また、メロスについても、原典通りの「徹頭徹尾神の加護を得た勇者」ではなく、ディオニス同様善良→闇堕ち→善良、の意識変化で揃えています。で、前回予告しました「メロスとディオニスは実はそっくり」というのは、これだけの話ではありません。基本的に授業では(あるいは生徒の一次感想などでは)「単純で正義感が強く人と人との信頼を何よりも大事にするメロス」と、「複雑で邪智暴虐で人は信じられないものだと思い込んでいるディオニス」は、真逆、対照的な性格と捉えたうえで進められていくと思います。でも「自己満へそ曲がり流読解」では、それは太宰の計算づくのミスリードであると考えます。表面上は正反対に見えますが、二人の心理描写や台詞を見比べていくと、ハッキリと類似点が浮かび上がってきます。その類似点とは何かというと、ズバリ二人とも「人からどう見られるかを異常に気にする」こと、さらに言えば「二人とも外聞を計算した演技派である」ということです。例を挙げてみますと、

【ディオニス】

○静かに、けれども威厳を持って問い詰めた。○王は憫笑した。○落ち着いてつぶやき、ほっとため息をついた。○さっと顔を上げて報いた。○しゃがれた声で低く笑った。○残虐な気持ちでそっとほくそ笑んだ。○だまされたふりして、放してやるのもおもしろい。○わしは悲しい顔して〜○正直者とかいうやつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。

どうですか?自分の威厳を取り繕うためと、人々の目にどう映るかがしっかり計算された演技力がハッキリわかりますよね。もう一ヶ所、最後の場面の

○暴君ディオニスは、群衆の背後から二人のさまをまじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔を赤らめてこう言った。・・・の意味合いについてはまたいずれ触れますが、簡単に言いますとこの最後の場面でのディオニスは、明らかに最初の場面とは異なっています。その象徴が「その王の顔は蒼白で〜」からの「顔を赤らめて」という変化です。いわば「血の通った人間らしさを取り戻した」ことの表れですね。

それに対して【メロス】

○メロスは無理に笑おうと努めた。(演技)○お前の兄は、たぶん偉い男なのだから〜○メロスの弟になったことをほこってくれ。(数日後に「英雄としての自分の死が伝えられるだろう」という含みのアピール)○人の真実の存するところを見せてやろう。○笑ってはりつけの台に登ってやる。(モロに演技)○私には、今、なんの気がかりもないはずだ。(自分に言い聞かせて強がる)○(闇堕ちするシーンはほとんどが外聞を気にした言い訳なのですが、その中でも)○真紅の心臓をお目にかけたい。○この心臓を見せてやりたい。○私はきっと笑われる。私の一家も笑われる。(この家族を気にするあたりは日本的な感じがしますね。)○ 私は、永遠に裏切り者だ。○地上で最も不名誉の人種だ。(この自分の名誉を気にするあたりにも、古き日本の体質を感じます。)

いかかですか?細かく見れば他にもたくさんありますが、メロスもディオニスも、外聞を非常に気にすること。そして色々と演技をしている、あるいはしようとしていることがお分かりになると思います。「見せつけてやりたい」と「見せてやろう」はほとんど同じ言葉ですよね。決してメロスは「単純な男」ではなかったのです。

このあたりの心理描写は、ほとんど原典では出てきません。(しいていえば「残虐な気持ちでそっとほくそ笑んだ。」のところくらいでしょうか。)では原典とは違う、打算的なところすら見える、弱い心を全面的に見せたメロスは魅力が薄れてしまったか?というとそうではない。むしろいかにも「人間らしさ」がありありと見える、等身大の身近さを感じさせてくれています。

この「外聞をひどく気にする」のは、モロに太宰自身の性格の投影でしょう。(私は太宰の熱心な読者ではなく、「人間失格」「斜陽」あと1、2冊しか読んでいませんが、「人間失格」の中で、主人公がワザと道化を演じて鉄棒から落ちたのを、同級生に見透かされて「ワザ、ワザ」と言われてものすごく恥ずかしい思いをした、という辺りからもわかりますね。)ずっと英雄的だった原典どおりではなく、ダメな人間が真っ当に立ち直ること、いわば太宰自身を含めた、世のダメ人間を「善し」とする気持ちが感じられるのですが、いかがでしょうか?長くなってきましたので今回はここまでとしますが、シリーズはもう少し続きます。

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