ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室(と年寄の冷や水)

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

「東洲斎写楽はもういない」を読んで驚いたのは

今まで何の疑いもなく勝手に「とうしゅうさい」だと思いこんでいたことです。「言われてみれば」確かに、東「州」ではなく東「洲」と、さんずいがついています。でも何かの話題に出てきた場合は、まず例外なくみんな「とうしゅうさい」と読んでいます。(ATOKでも「とうしゅうさい」と打てば「東洲斎」は出ますが、「とうじゅうさい」と打つと、「当十歳」としか出てきません。)

極論すると、この本の謎解きというか証明は、この「東洲斎」の読み方が半分を占めている感じなんですが、この基本的な、そして単純なことにほとんどの人が(当然私自身も)何も疑問を持っていなかったことに、新鮮な感動がありました。(そういえば、うろ覚えだけど「邪馬臺国はなかった」的な題名の本を読んだこともあったなぁ。「臺(=たい、台)」ではなく「壹(=いち、壱)」で、「やまいちこく」だったという内容の。まぁ正直、「う~ん?」だったけれども・・・)

これ以上の言及は、ネタバレになってしまうので割愛しますが、この本を読んでいない人は、「え?『とうしゅうさいしゃらく』じゃないの?」と驚いたのではないでしょうか。いろいろな資料から、淡々と事実を並べて「写楽の正体」を、外連味なく強烈な説得力で解き明かすこの本を、大学で卒論を書く前に読みたかったとしみじみ思います。(逆に読んでしまっていたら、びびって書けなくなっていたかもしれませんが)以前のブログで書いた「卵」についてのイチャモン指摘も、「言われてみれば」というレベルの発見だったと思います。でも、よく読むと国語の授業で、生徒の「素朴な疑問」から、読解に関する新たな発見が出てくることは「希に良く」あります。(この言葉って間違ってるけど結構深い言葉のように感じます。)

それにしても、「東洲斎写楽は~」は、最終的な証明が、他の作家の歌麿説や蔦屋重三郎説、北斎説とかシャーロック説?みたいに「ものすごく意外な別人説」ではないところがまたリアルなんですよね。高橋克彦の「写楽殺人事件」なんかも、読んでいた時には「そうかも知んない?」感はありましたが、「意外な犯人」をひねりにひねって考えなくても、十分面白い小説は書ける、そんなお話でした。(ただ、しばらく「明石散人」の本を追ってみたのですが、なんだか途中からゴジラみたいな日本沈没みたいな、謎のフィクサーみたいな、私にはよくわからない話になっていってしまったので、途中で追うのをやめてしまいましたが・・・)

写楽殺人事件」以外にも、一時期「江戸川乱歩賞」作品にはまり、ほとんど毎年買っていたことがありますが、個人的に一番好きだったのは、井沢元彦の「猿丸幻視行」でした。これにはまって柳田国男折口信夫の本にも手を出した時期がありました。さらに、井沢元彦の「逆説の日本史」も、(江戸時代までですが)好んで読んでいました。そんな辺りが、私の「異論は認める」的な、へそ曲がりな国語教科書の読解につながっていったのではないかと思います。

ちょいと自分語りが長くなってしまいましたので、次回はまた私の「自己満へそ曲がり中学国語授業」の一節を、山川方夫「夏の葬列」を題材にご紹介いたします。お暇でしたらご笑納ください。どっとはらい

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