ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

「九マイルは遠すぎる」は言葉の可能性を広げてくれる本です

解説を見ると、1967年発行の短編集、とありますので、半世紀以上前の古めかしい、でも安楽椅子型推理小説としては非常に有名な作品です。ですから、今読んでも「うーん?なんか古くさい・・・」となるかも知れません。でも、特に表題の話は、「純粋に非常に短い文章だけから意外な読解を引き出す」という、理屈バカで活字中毒の私にはもうたまらない話です。

 

ネタバレにならないように、推理小説を説明するのは非常に難しいのですが、ざっくりいうと「『九マイルもの道を歩くのは容易じゃない。まして雨の中となるとなおさらだ。』という短い文章について、純粋に文言だけをヒントに読解をしていき、最終的に『前日に起きたある殺人事件」の真相を暴き出す、という話です。(文庫の裏側の文章から借りましたので、これくらいはセーフですよね?)

探偵役のニッキィ・ウェルト教授は、「まず話し手はうんざりしているね。」ということから始め、次々に普通は考えつきもしない解釈の可能性を広げていきます。もちろん中にはかなり強引なものや、現代の感覚とズレている内容もあります。(例えば、「九マイル=14、4キロくらいでうんざりしているから、話し手はスポーツマンではないよね。」なんて部分は、現代人とはかなりかけ離れた感覚です。半世紀前のアメリカの地方都市での話なので、その当時は普通だったのかも知れませんが、現在15キロ弱歩くとなると、スポーツマンでもちょいと嫌だと思います。)

とまぁ、強引なところはありつつも、故都筑道夫氏の言う「論理のアクロバット」についつい引き込まれ、訳のわからないうちに素直にダマされてしまう、そんな作品です。言葉についてツッコんで読み込んで、想像力をはたらかせると、こんなにも世界が広がるのか・・・と、軽く感動を覚えました。それからは、教科書を読むとき(※教材研究ではありません。ドヤ顔で言うことではありませんが、あまり教材研究をしたことはありませんから。)書かれてある文言の裏の意味、ダブルミーニングについて、以前と比べ非常に神経を尖らせて読むようになりました。その影響で「そんな箇所にこだわって授業する国語教師は日本全国ぼぼいないのではないか?」と思われる、マニアックで重箱の隅をつつくような読み取りを生徒に促すようになりました。

 

ところで、この文庫本の序文によれば、この話のきっかけは、自身教授であった作者が、上級英作文のクラスで教えていたある日の授業だったそうです。その日教授は「言葉は使いようによっては、ごく短い組み合わせでも幾通りもの解釈が得られる」ことを、学生に示すため、ふと見た新聞の、ボーイスカウトのハイキングに関する記事に載っていたこの「九マイルもの道を~」という文章を黒板に書き、学生に「この文章から可能な推論を引き出してみたまえ。」という課題を出したのだそうです。結果、「この試みはあまり成功しなかった。」そうで、生徒は何か手の込んだ罠だと考え、「黙っているにしくはない」と考えたらしく、作者がむきになっておだてたりヒントや助言を与えているうちに、自分でこの推論にはまっていってしまい、その体験を元にこの小説が書かれた、とのことでした。で・・・

 

私もこのパターンで、何か教科書の題材から、生徒に出題してみたいと思ったわけです。(「成功しなかった」って言ってるのにネ)そこで選んだ題材が、教育出版(他にも採用している会社はあるようですが)「にじの見える橋」(杉みき子作)の一節。

「思わず振り返って、子供たちがまっすぐに指さす空を見上げると、ああ、確かににじだ。」

本文を読む前に、この一文を黒板に書き、「さぁ、この一文から、何でもいいから分かることを発表してみよう。」と、生徒に振ってみたわけですが・・・どうなったかはまた次回。

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