ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

なんちゃってキャンパーの密かな楽しみその1

私は昔から「一人あそび」が好きで、例えばバイク、例えば読書、例えばパチ○○、そしてバイクとともにキャンプも好きでした。バイクキャンプでは大学生の夏休みに北海道半周(札幌→根室稚内旭川→札幌)というコースを、さらに就職してから2回、東北の芭蕉関係の土地(尾花沢、立石寺、高館、中尊寺など)を回り、授業で見せるためのビデオを撮りました。1回目は8ミリビデオで撮り、2回目はデジタルビデオテープで録画しましたなぁ。(思えば遠くへ来たもんだ・・・)それからしばらく遠ざかって(結婚しバイクを降りて)いました。その後子供がそこそこ大きくなってから、夏休みに数回キャンプへ行きました。ところが近頃、誘っても行きたがらなくなってきまして、せっかく買ったキャンプ用品が宝の持ち腐れで勿体無い。さらにそれと並行して、このコロナ禍で暇に任せてYouTubeばかり見るようになり、すっかり「ひろしキャンプ」などのキャンプ動画にハマってしまいました。そして何度誘っても、カミさんも子供も面倒くさがるので、それでは、ということで「ソロキャンプ」を始めようか、と思い立ちました。コレサイワイトバカリニデスヨネ、ヒソヒソ(←このヒソヒソは、私がよく見ているキャンプ系Youtuberの「少年カムイ」さんのパクリインスパイアです。)

ところで、もともと私は細々としたグッズ?アイテム?ギア?的なものが好きで、カタログなんかをよく見るのですが、そうなるとこのアウトドアグッズってのが実にいわゆる「沼」なんですよね。もちろんそんなにお小遣いをもらえるわけでなし。そもそも中学校の平教員の給料なんて多寡が知れているわけで、贅沢はできませんが元々持っていたポンコツの道具をできるだけ使い、月々のお小遣い(というか部活動の指導手当)の中でやりくりできる範囲で少しずつ新しいものも買い足して、100円ショップを駆けずり回り、そろそろ行ってみるか?と思った時には、北海道はすっかり冬になってしまいました。

いい歳して凍死してしまっても恥ずかしいので、来年の春暖かくなってから本格的に始めてみようかと思っています。それまでの間にあれやこれや揃えたり、行き先や何で行くかを考えたりするのが、これからしばらくの私の楽しみになりそうです。

ちなみに、今のところ考えているのが「自転車に荷物を積んでのソロキャンプ」です。ちょっと調べるだけで、下手に自動車でキャンプをすると、ちょっとしたビジネスホテルに一泊する以上のお金がかかったりしますからね。ガソリン代も高いままだし。(どうもいい歳して貧乏くさい話ばかりで恐縮です。)

テントやらマットやらシュラフやらは、全てもう20年(以上?)前の物ですが、最近ちまちまと新しいギア?(何か恥ずかしい)も買っておりまして、少し紹介させていただきます。その第1弾はこれ

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Youtuberの「FUKU」さんがプロデュースした「ギアケース」と「ファーストエイドポーチ」を、運良く手に入れることができました。その使用感(といっても適当に物をいれただけ)を次回お伝えしようと思います。ちょっとブログの方向性がブレてきましたが、よろしければまたご覧ください。(またいずれ中学国語の話題には戻ります。)

 

「少年の日の思い出」の思い出その⑦

今さらですが、もう一度主人公が来た時の、一連の表記を振り返ります。

「壊れた羽は丹念に広げられ、ぬれた吸い取り紙の上に置かれてあった。しかし、それは直すよしもなかった。触覚もやはりなくなっていた。そこで、それは僕がやったのだ、と言い、詳しく話し、説明しようと試みた。すると、エーミールは、激したり、僕をどなりつけたりなどはしないで、低く「ちぇっ。」と舌を鳴らし、しばらくじっと僕を見つめていたが、それから、「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな。」と言った。僕は、彼に、僕のおもちゃをみんなやる、と言った。それでも、彼は冷淡に構え、依然として僕をただ軽蔑的に見つめていたので、僕は、自分のちょうの収集を全部やる、と言った。しかし、彼は、「結構だよ。僕は、君の集めたやつはもう知っている。そのうえ、今日また、君がちょうをどんなに取り扱っている、ということをみることができたさ。」と言った。その瞬間、僕は、すんでのところであいつの喉笛に飛びかかるところだった。」

どうですか?主人公が言って然るべきなのに言っていない一言がお分かりでしょうか?お分かりでない方には、エーミールのところに来る前に、主人公に母親が言ったセリフを並べてみましょう。

「おまえは、エーミールのところに行かなくてはなりません。」と、母はきっぱりと言った。「そして、自分でそう言わなくてはなりません。それより他に、どうしようもありません。お前の持っているもののうちから、どれかを埋め合わせにより抜いてもらうように、申し出るのです。そして、許してもらうように頼まなければなりません。」

もうお分かりですね。そうです。主人公がエーミールに、絶対に言うべきなのに言ってない一言とは、「許してもらうように頼む」ことです。

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そもそも、よく見ると主人公の動きには結構打算的なところがあります。まず会ったときにすぐ「それは僕がやったのだ、すまなかった許してくれ。」と入っていればまた展開も違ったでしょうが、すぐには言わず、そのちょうを見せてくれ、とだけ言ってます。許しを乞う言葉はありません。(もちろん、いきなりそれを言うのは勇気がいるし、その段階ではまだエーミールの部屋ではなく、エーミール家の玄関先?でしたから、エーミールの家の人に聞かれる可能性があり、ここでは言えなかったのは理解できます。)そして、見せてもらった時も、「しかしそれは直すよしもなかった。触覚もやはりなくなっていた。そこで、それは僕がやったのだと言い・・・」とあります。ここでの「そこで」は、明らかに「元通りになっていないことを確認した」にかかる言葉になるわけで、もし元通りになっていたら「ひょっとしたらすぐに許してくれるかも知れない」し、最低でも「少しは自責の念が軽くなった状態で話すことができる」ということになります。ところが、その最後の心の拠り所も無くなったのを見ての「そこで」は、(12歳の少年の心情として理解はできますが)いまひとつ潔さを感じられません。

確かに、母親は「持っているものからえり抜いてもらう」そして「許してもらうよう頼む」という順で主人公に諭しました。だからひょっとして主人公は実直に、その順序通りに進めようとした、つまり「より抜いてもらった後で許しを乞おうとした」可能性はあります。ありますが、それはあまり現実的とは思えません。ただ、結果としてどこを見ても「謝罪した」ことを示す表現はありませんよね。だとしたら主人公の評判はさらに失墜します。「あいつ、人の大切なものをワザと壊しておいて、わざわざ家まで来ておいて、謝りもしないんだぜ!」ということになってしまうからです。

生徒は意外とこの「主人公は結局謝っていない」ということに気づきません。とはいえ、いくら「へそ曲がり自己満読解」でも、わざと謝らなかったわけではないと思います。となると、やはり「詳しく話し、説明し」た後で、許してくれるよう頼もうとしていたが、エーミールの舌打ちで何も言えなくなり、まずはなにか償いをしようとしたがしくじってしまい、たった一つのプライドまで傷つけられ、逆ギレして謝るどころではなくなった、と考えるのが自然な流れかと考えるのですが、いかがでしょうか?こう考えると、結局謝罪も償いもできないまま帰ってきた彼は、自分なりの謝罪と償いの意味をこめて、自分の大切なちょうを粉々にしてしまった、という読み取り方も、あながち悪くないと思うのですが。(やっとここで、以前のブログその④で述べた内容に戻ってこれました。話があっちゃこっちゃいってしまって申し訳ありませんでした。)

身も蓋もないことをいうと、このブログ全体は(そんなもの好きはそうそういないと思いますが)現役中学生(と、中学時代国語が好きだった大きなお友達)に読んでもらえたら、きっと教科書や授業の読み方が変わってくるんじゃないかと、そんな淡い願いを持って書いています。多分ですが、現役の「オーソドックス」な国語の先生は、こんなところまで突っ込んでの読解はしていないと思います。でも「九マイルは遠すぎる」のように、単語の一つ一つにツッコミを入れて、裏読みができるようになったら、日本語の持つ情報量の濃さに気づき、もっと読書や国語が面白くなるんじゃないかなと、そんなことのヒントになればと、そんな想いが、いつか誰かに通じてくれれば、書いてきた甲斐もあるというものです。

とりあえず今回で、「少年の日の思い出」という教材についての話題は一旦終了します。次回はちょっと趣向を変えて、還暦近い私の、来年以降新たに(というか復活させたい)超個人的な趣味なんかについて書いていこうと思います。本の話とは違いますが、よろしければまたお目通しください。どっとはらい

「少年の日の思い出」の思い出その⑥

前回の続きです。さて、山場である主人公とエーミールが対峙する場面で、90%の国語教師がするであろうQ3、『エーミールの言った「そうかそうか、つまり君はそんなやつなんだな。」の「そんなやつ」とはどんなやつという意味だと思うか?』に対するA3も、いろいろな回答が考えられます。ただし、ここで前回書いたA案(経緯や気持ちはつたえることができた)と、B案(僕がやったのだ、しか伝えられなかった)では、「そんなやつ」の意味合いが大変大きく違ってきますよね。

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A案であれば、「自分の個人的な気持ちを優先し、他人の大事なものを、事故とはいえつぶしてしまうような、身勝手でそそっかしい、チョウの扱いもちゃんとできないヤツ」くらいの意味になるでしょうか。もちろん、エーミールが主人公の言い訳を一応は聞いた、という前提ですが、でもこれならB案と比べればまだマシでしょう。

これに対しB案、つまり「理由も経緯も気持ちも伝えられなかった」としたら、これは一生トラウマ級の、最悪の状況になります。エーミールは、主人公がエーミールを困らせるために「ワザと」やったのだ、と思いますよね。しかもわざわざエーミールのところに、どんな様子だか見に来た、ということになってしまいます。この場合そんなヤツとは、「他人がさなぎから孵して大切にしているクジャクヤママユを、自分が手に入れられない腹いせに(※主人公のチョウ好きは周りのみんなが知っている)人目を盗んでこっそり人の部屋に入り、ワザと嫌がらせのために潰して逃げ、後で困っているエーミールの顔を図々しく見にくるようなヤツ」ということになります。

だとしたら、後日、学校の友だちに、「あいつは、昨日僕がいない隙を見計らってこっそり僕の部屋に忍び込んで、ワザとクジャクヤママユの標本を潰して逃げて、そのあと夜になってから、自分がやったと図々しくドヤ顔で言いにきたんだぜ。」とか広められたりしたかも知れません。潰したのは事実ですから、友達に言い訳をしようにも、あまり効果はなかったでしょう。ひょっとしたらその後孤立していった、なんてこともあるかも知れません。まぁそこまで想像を膨らませる必要はないかもしれませんが、この一件が彼の人生に大きな影響を与えたであろうことは想像に難くありません。現実の裁判でも、事故なのか、故意なのかによって、大きく刑期に違いが出ます。彼の場合、少なくとも同じ学校に通っている間、ずっとみんなから白眼視されていたかも知れません。

さらに言うならば、85%の国語教師がするであろうQ4「主人公はなぜ逆ギレしてエーミールの喉笛に飛びかかるところだったのか?」という問いに対しての回答もかなり違ってきます。エーミールの言葉のどこにキレたのか、については明らかに「君がチョウをどんなに扱っているかを知ることができたさ」の部分、自分が唯一プライドを持っている「チョウが好きで好きでたまらないこと」をバカにされたから逆ギレしたわけですが、A案の場合「自分では手に入れられないからって人から盗み、そのうえチョウの扱い方がすごく下手くそで潰してしまう」ことに逆ギレしたことになります。

それに対しB案の意味合いは「自分が手に入れられないからといって、他人が苦労して育てたチョウを、嫌がらせのためにワザと潰して平気な顔をしていて、チョウに愛情なんて全く持っていない、ただの物のとして扱っている」ことになると思います。言い換えれば主人公がキレた一番大きな理由は、「お前はチョウに愛情なんてこれっぽっちも持っていないんだろう!」と決めつけられたところではないでしょうか。

事故と故意では、これくらい受け取り方が違ってくると思います。そして故意に潰した、チョウに愛情を持たないヤツと決めつけられても、反駁の仕様がないまま家に帰ってきて、暗闇の中で自分のチョウを粉々にする時、どんな気持ちだったか。以前のブログ(その④)で、生徒の反応を大きく6つのパターンに分けてみましたが、その⑦として「そうだよどうせおれなんてチョウに愛情をもってない最低のヤツだよ、どうせどうせ!」と、やけくそになったヤサグレ型」もありうるかも。(②の逆ギレ型と似ていますが、ニュアンスがちょっと違います。ヤサグレ型だとその後不良少年になってしまうかもしれません。)とはいえ、改めて私としてはそのときの彼の気持ちとしては、その④で述べた⑥懺悔賠償型、を推したいと思うのです。なぜかというと、主人公の言動をよく見なおすと、「あってしかるべきなのに多分発せられていない一言」に気づくからです。その一言とは何だかお分かりでしょうか?次回はその一言について考えていきたいと思います。お暇でしたらまた見てやってください。どっとはらい

「少年の日の思い出」の思い出その⑤

※しつこいようですが、表記については原文のドイツ語に当たればはっきりすると思いますが、そんな気力も能力も無いので、あくまでも「日本語訳」の表記にこだわった茶々読解について述べていきます。

「二重にしてくびにかける数珠」「ここではきものを脱いでください」など、どこで句切るかで意味が変わる言葉の例題はたくさんありますが、前回挙げた

そこで、それは僕がやったのだ、と言い、詳しく話し、説明しようと試みた。
 すると、エーミールは、激したり、僕をどなりつけたりなどはしないで、低く「ちぇっ。」と舌を鳴らし、しばらくじっと僕を見つめていたが、それから、「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな。」と言った。

の下線部は、いったいどこで区切って考えれば良いのか、これに実はひっかかっています。たぶんほとんどの人は、「①言った+話した+説明した。」(そしてそれを全て聞いた後で「すると、」以下に続く)というふうに捉えるのが当たり前、と思っているのではないでしょうか。でも、だとしたら「と言い、詳しく話した。」あるいは「詳しく説明した。」で良いですよね?そして何よりもなぜ、「試みた」という文末表現にしたのでしょうか?(ここで原文のドイツ語が分かれば良いのですがね。英語のTRYにあたるような単語があったのでしょうか?)

「話した。」「説明した。」と「試みた。」を比べると、受ける印象がかなり違います。つまり、「試みた。」という表現には、「成功しなかった。」というニュアンスがかなり強く感じ取れます。だとしたら、成功しなかったのはどの部分なのか?

別の区切り方として「②言った+話した。さらに説明しようとしたがうまくいかなかった」という考え方もできます。しかしこれだと、「話した」と「説明した」の内容は、一体どう違うのか。いずれにしても、この状況で主人公がエーミールに話す、あるいは説明するべき内容は以下のようなことになると思われます。

(1)自分もクジャクヤママユが好きで好きでたまらなかったこと。(2)せめて一目見せてもらいたいという気持ちで来たこと。(3)部屋の鍵が開いていたので、一目見るだけのつもりで勝手に部屋に入ったこと。(4)見ている時に出来心でどうしても欲しくなって持ち出したこと。(5)潰すつもりは全くなく、物音に怯えて慌てて起こったアクシデントであること。(6)エーミールに許してもらえるよう頼みにきたということ。・・・他にも考えられますが、まぁ最低限これくらいのことは伝えようと「試みた」のでしょう。しかし、そうなるとやはり「話す」部分と「説明する」部分を分ける必然性がますます感じられません。以上のことから私は、自己満へそ曲がり流読解でこの部分を「③言った+話したり説明しようとしたりしたが、それはうまくいかなかった」という意味合いに捉えるべきではないか、と考えます。

そう捉えるとどうなるか?非常に悲惨な結果になりますよね。つまり、「それは僕がやったのだ。」だけは伝えたが、その後の「なぜやったのか」「どういう気持ちでやったのか」「何をしに来たのか」という、一番大事な部分をきちんと伝えられなかった、ということになります。さらに言えば、この「きちんと伝えられなかった」にも二通りの考え方ができます。

一つは「(1)〜(6)の内容を、説明はしたのだが、全く相手にされなかった。」という考え方(これをA案とします。)

もう一つは「説明しようとした時にエーミールに舌打ちされてしまい、そこから先(1)〜(6)の内容が全く説明できなかった。」(これをB案とします。)

Aの考え方も、Bの考え方も十分あり得ます。なぜなら、主人公がエーミールのところに行くことをためらった理由が、まさにそれだからです。曰く「あの模範少年でなくて、他の友達だったら、すぐにそうする気になれただろう。彼が、僕の言うことをわかってくれないし、おそらく全然信じようともしないだろうということを、僕は前もってはっきり感じていた。」と。Aの考え方はまさにこれであり、Bの考え方も、このことが意識の中にあったから、「説明しようとしたが、舌打ちされた段階で説明しても無駄だと気づき、それ以上何も言えなくなってしまった」というように考えることができるからです。とはいえ、AだったのかBだったのかによって、その後の主人公の悲惨さ、トラウマの強さが全然変わってくることになります。では、「説明は一応できた」のでしょうか、それとも「そもそも説明出来なかった」のでしょうか。          自己満へそ曲がり流読解で言わせてもらえば(何度も書いたとおり、原文はいざ知らず、日本語表記だけから読み解くとするならば)少なくとも「説明」はされていない、となります。なぜならば説明「しようとした」という表記は、「未遂だった」と読めるからです。そして「説明」は未遂だが、「話し」だけは遂行された、というのもつじつまが会いません。以上のことから私はB案、つまり「それは僕がやったのだ、だけは伝えられたが、それ以外の説明はできなかった」と読み取りました。では、もしもそうだったとしたら一体それはどういうことを意味するか。その考察については次回にさせていただきます。よろしれけばまたお付き合いください。

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「少年の日の思い出」の思い出その④

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教科書を読んでいて、今回また新たに「気ーづいちゃった気ーづいちゃったわーいわい(©デッカチャン)」ってことがありました。何かというと「微妙な教科書の記述の変化再び」です。「少年の日の思い出」の旧記述では『僕は、「床にお入り。」と言われた。』でしたが、新記述では『僕は、「とこにお入り。」と言われた。』になっていることに気づいちゃったんですよ。確かに、旧記述の時、生徒に読ませるとかなりの高確率で「ゆかにおはいり」って読むんですよね。ゆかにおはいり、だったら「反省させるため地下室に閉じ込めた」みたいになっちゃいますよね。(高齢の北海道人だったら「室(むろ)に入れられた」みたいな?)ただし、現代っ子には「とこにおはいり」でも説明が必要な子がたくさんいそうな気がします。だとしたら、原文はきっと「ベッド」なんでしょうから、いずれ「ベッドにお入り」あるいは単純に「もう寝なさい」などと、さらに表記が変わるかも知れませんね。(そのころまで教師をやっているかどうかは別として)閑話休題

以前載せました授業でのQ1「あなたなら猫のせいもしくは悪いやつのせいにするか、それともちゃんと告白するか」に対するA1は、「ごまかすか、きちんと告白するか」の二択であり、(道徳的にどうかは別として)まぁどちらも「ありうる答え」でした。これは発問としても答えるにしても、さほど難しくはないので、かなり重要だけどまぁちょっとした授業の中のアクセントになる発問です。(ちなみに私は「できればごまかす」と答えるダメ人間に親近感が持てます。自分自身が意志の弱い人間だから、ということもあるけれど。)

それに対し、99%の国語教師がするであろうQ2「主人公はなぜ最後に自分の集めたチョウを粉々につぶしてしまったのか?」に対するA2、これがもう「みんな違ってみんな良い」の典型的な回答でして、逆に言えば「テストでは出せない問題」です。(ワークそのままの問題を出していて、ワークの解答以外は認めないという先生もごく稀にいるでしょうが、このA2は、明らかに解答ではなく回答ですよね。)

だいたい毎年このような回答が返ってきます。

①チョウを見ると今日のことを思い出してしまいツライから目の前から消してしまいたい(トラウマ解消型)

②チョウを見るとエーミールのドヤ顔が浮かんできて腹が立つからつぶしてしまった(逆ギレ八つ当たり型)

③チョウ集めなんてしたからこんな嫌な思いをしたので、チョウ集めからすっぱりと手を切ろう(原因追及決別型)

④自分の大事なチョウをつぶすことでエーミールの気持ちを味わって反省しよう(追体験反省型)

⑤自分には蝶集めをする資格がないと思い自分自身の戒めとして潰してしまおう(自己批判型)

⑥結局エーミールはおもちゃも何も受け取らなかったから、せめて自分のチョウをつぶすことで償いをしよう(懺悔賠償型)・・・

と、だいたいこれくらいの読み取りが出てきて、どれもイイ回答になる、非常に面白い部分です。ただし、人気で言うとだいたい①、②が多くて、⑤の「償いをする」という考え方は、あまり賛同を得られない傾向があります。(多分生徒の多くがエーミールのことがキライで、腹が立ったという読み取りが強くなるのではないかと思ってます。)ところで私は逆に、個人的に⑥を一番強く推しています。なぜかというと、前述したとおり(いまだに迷っている)ある箇所の読み取りを、「自己満へそ曲がり流」に読解すると償いの気持ちが強く感じられたからです。その箇所とは以下の部分です。

壊れた羽は丹念に広げられ、ぬれた吸い取り紙の上に置かれてあった。しかし、それは直すよしもなかった。触角もやはりなくなっていた。そこで、それは僕がやったのだ、と言い、詳しく話し、説明しようと試みた。すると、エーミールは、激したり、僕をどなりつけたりなどはしないで、低く「ちぇっ。」と舌を鳴らし、しばらくじっと僕を見つめていたが、それから、「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな。」
と言った。

一番盛り上がるシーンですが、この「言い」「話し」「説明しようと試みた」の部分の読解が、どうもイマイチはっきりと割り切れない。へそ曲がり流の読解では、この太字の部分は三種類の違った読み取りができると思うのですが、ちょうどお時間となりました。そのあたりの読解については次回に回させていただきますので、お暇でしたら読んでやってください。お後がよろしいようで。

「少年の日の思い出」の思い出その③

皆さんご存知のこの小説は、主人公が闇の中で、自分の集めたチョウの収集を一つ一つ指で粉々につぶしてしまうシーンで終わります。

僕は、そっと食堂に行って、大きなとび色の厚紙の箱を取ってき、それを寝台の上にのせ、闇の中で開いた。そして、ちょうを一つ一つ取り出し、指で粉々に押しつぶしてしまった。

なぜそうしたのか?という理由については次回触れようと思いますが、もう一つこのシーンで大切なのは「闇の中で」つぶしていたことだと思います。つまり、想像するしかないのですが、「主人公はどんな表情でつぶしていただろうか?」なんてことを考えてみるのも重要な読み取りではないでしょうか。苦悩に歪む表情なのか、泣き顔でつぶしているのか、能面のような無表情でつぶしているのか・・・さすがに笑いながらつぶしていると考える生徒はいないでしょうが、ここで「カオナシ」で終わらせているあたりは、作者ヘッセの計算だろうと思います。

とともに、この場面って既視感がありませんか?そうです。ビフォーアフターのアフターパートの最後のシーンです。つまり

彼は、ランプのほやの上でたばこに火をつけ、緑色のかさをランプにのせた。すると、私たちの顔は、快い薄暗がりの中にしずんだ。彼が開いた窓の縁に腰掛けると、彼の姿は、外の闇からほとんど見分けがつかなかった。私は葉巻を吸った。外では、かえるが、遠くから甲高く、闇一面に鳴いていた。友人は、その間に次のように語った。

のシーンです。「カオナシ」その1ですね。現在のシーンの最後と、回想シーンの最後を、どちらも「暗闇の表情を見せない」ことでそろえる、という設定は、これは日本語訳どうこうということで変わりはないでしょうから、明らかにヘッセが、全体の構成を意識してあえてこうしたのではないでしょうか。(変なものに例えるならば、お笑いの世界でいう「天丼」ってやつにちょっと似てるかも。)現在のシーンでの主人公は、どんな顔をしているでしょうかね。苦笑いの表情なのか、懐かしい表情なのか、恥ずかしいと言っているとおり羞恥心にみちた表情なのか。「世界観がぶちこわしにならない限り想像を膨らませるのは全然アリだ。」と生徒には指導していますが、はっきりいって私にもよくわかりません。でも、どれもアリだと思います。「みんな違ってみんな良い」的な読み取りのできる、こういうシーンがやっぱり教えていて面白いんですよね。ところで、このビフォーパートのラスト「なぜそうしたのか」の読解について、以前から微妙に読解になやんでいる表記があります。その表記について次回述べようと思いますが、皆さんはいかがお思いでしょうかね。お暇でしたらお考えをコメントいただけるとありがたいです。それではまた、次回その④でお会いしましょう。

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ごめんなさい。こういう時どんな顔すればいいかわからないの。

 

「少年の日の思い出」の思い出その②とお詫び

えー、まことに申し訳ありませんが、前回アップした「少年の日の思い出」の思い出①の中に、改めて読み直すと重大な誤りがあったことがわかりまして、ここに訂正させていただきたいと思います。(汗)

何のことかというと、昔の思い出に、実にもっともらしいうそをついた生徒のことを取り上げ、「鋭い読み込みだ」と賞賛した、と書きましたが、今回ふと気になってもう一度読んでみましたら、生徒も、そして何より私の方でも大いなる勘違いしていたことが判明しました。「前羽」の一件についての記述の、前段と後段を列挙してみます。

【前段(盗んだチョウをポケットから出す場面)】クジャクヤママユはつぶれてしまったのだ。前羽が一つと触角が一本、なくなっていた。ちぎれた羽を用心深くポケットから引き出そうとすると、羽はばらばらになっていて、繕うことなんかもう思いも寄らなかった。盗みをしたという気持ちより、自分がつぶしてしまった、美しい、珍しいちょうを見ているほうが、僕の心を苦しめた。微妙なとび色がかった羽の粉が、自分の指にくっついているのを見た。また、ばらばらになった羽がそこに転がっているのを見た。

【後段(エーミールが修繕したチョウを見る場面】壊れた羽は丹念に広げられ、ぬれた吸い取り紙の上に置かれてあった。しかし、それは直すよしもなかった。触角もやはりなくなっていた。そこで、それは僕がやったのだ、と言い、詳しく話し、説明しようと試みた。

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はい、お恥ずかしい話ですが、前段を読んだ時に、私もその生徒も「前羽が一つなくなっていた」というのを、文字通り「無くなっていた」と思ってしまっていたんですね。改めてちゃんと読むと、なくなった前羽=ちぎれた羽=壊れた羽、であり、どこかに行ってしまったわけではない。だから「猫がくわえていた」という嘘は、逆に矛盾していて命取りになる嘘だったわけです。後段の、触角も「やはり」なくなっていた、の「やはり」を、「案の定」の意味ではなく「〇〇もまた同様に」の意味だと思っていたのも、二重の勘違いでした。ざっと今から二十年くらい昔の生徒の話なので、今更訂正もできませんが、あと何回教えるかわからないけど、次回は変な教え方をせずにすみそうです。数少ない読者の皆様には改めて勘違いとお詫び申し上げます。

負け犬の遠吠えで言わせてもらえば、「なくなっていた」ではなく「もげていた」くらいに書いてくれていれば、こんな勘違いをせずにすんだのに!qあwせdrftgyふじこlp;@:「」!・・・(人呼んで逆ギレ)しかし、考えてみれば原文のドイツ語を訳するにあたって、訳者の高橋健二氏も、「壊れた」「ちぎれた」「取れた」「なくなった」「消えた」・・・その他諸々の似たような日本語から、何を使うのがいいのか相当悩まれたんじゃないのかな、と改めて思います。そもそも一人称の「ich」を何にするか。私?僕?俺?おいら?同じ少年でもずいぶんイメージが変わりますね。ましてやこの「少年の日の思い出」は、同じ人物のビフォーアフターだからちょいとややこしい。改めて、外国文学の日本語訳を、どこまで突っ込んで読解するかの難しさを感じました。じつは以前から一カ所、ここの日本語訳をどう解釈したらいいか迷っているところがありまして、そのあたりの葛藤もいずれ書かせてもらおうと思います。次回は「少年の日の思い出」の、カオナシの話など。(これでピンと来る方、いらっしゃいますかね?)それではまた、お暇でしたらご覧ください。

 

「少年の日の思い出」の思い出その①


それにしても、考えて見れば毎年何万人という中学生が読み、そしてもう何十年も続いているのだから、「少年の日の思い出」とか「故郷」とか「走れメロス」とか、ものすごいロング&ベストセラーなんですね。日本のほとんどの人が読んでいる、と言っても過言ではない。世界一のベストセラーは「聖書」だと聞いたことがありますが、日本だったら間違いなく教科書の中の作品、でしょうね。(「オッペルと象」→「オツベルと象」は無くなりましたが。しかしなんで名前変わったんだろう?)逆に言えばこれらの教材を取り上げるのは、かなり勇気が要りますね。きっと私の知らないところで、微に入り細に入り研究されていることだろうし。そうことを知らぬ存ぜぬで、好き勝手書くため「自己満へそ曲がり流」を名乗っております。(←ひでぇケツのまくり方)

さて、「少年の日の思い出」は、いうまでもなく日本語訳なので、原文のニュアンスとは違っているところもあるでしょうし、日本語訳そのままで読解しても、ヘッセの意図と違ってくる可能性があることは重々承知です。それを踏まえたうえで、幾つか授業の中の思い出と、自己満へそ曲がり流の読解について触れていきたいと思います。

毎回の授業の中で必ず投げかける質問が幾つかありますが、まずはQ1、「母親に諭されて、行きたくなかったエーミールのところに行きました。するとエーミールは『誰かがクジャクヤママユをだいなしにしてしまった、悪いやつがやったのか、あるいは猫がやったのかわからない』と言いました。どうやら主人公がやったことには気づいていないようです。さて、あなたならどうしますか?」・・・私自身が「薄汚れた心の持ち主」なので、リアルだったらかなりの確率で「猫のせい」にするだろうなぁ、と思いつつ(ひでぇ奴だな)生徒に聞くと、やはりなんというか荒れた元気の良い学校だと「猫のせい」「悪いやつのせい」にする割合が高かったような気がします。ところが一番近くに聞いた学級だと、(そんなにお上品な学校でもないのですが)猫や悪いやつのせいにする生徒が2~3人しかいなくて、「ちゃんと自分がやったと言う」という生徒が圧倒的に多かったし、「私だったら猫のせいにするけど?」と投げかけると、リアルに引かれてしまいました。(よごれつちまつた悲しみに・・・)そんな中、かなり昔の生徒に、とてつもなくナチュラルボーン嘘つき読解力と創造力のたくましい子がいまして、こんな内容のことを言いました。

「猫のせいにします。主人公はつぶれた蛾を戻したときに、前羽が一つなくなっていることに気づいているので、エーミールに『さっき猫がクジャクヤママユの前羽みたいのをくわえて歩いているのを見たから、ひょっとしたら君のを盗ったんじゃないか?と思って来てみたんだ。やっぱりそうか。あの猫めぇ!』とか言えば、夜にいきなりエーミールの家に来たことも、チョウを見せてくれと言ったことも、ごく自然にごまかせると思います。」

・・・だ、そうです。聞いていた他の生徒は「おお~っ!?」とどよめきましたし、私も「うーん、鋭い読み取りだ。」と一応褒めましたが、正直この子の将来が心配です。頭は良かったけど、詐欺師とかになってないだろうなぁあの子?・・・では、次回は授業の中で必ずする発問その2について書いてみようと思います。

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どう考えてもこんなのがこっちに飛んできたら逃げ惑うわ

 

教科書の中の微妙な表記の変化について

さて、前回「星の花の降るころに」の凡ミス(自習時間の後に「給食なしで」いきなり昼休みになっていた点)について、教科書会社に電話したときに、せめて「自習時間」を「給食時間」に直すだけで解決できますよ?と一応提案したのですが、採用されなかったみたいですね。「昼休み」を「休み時間」にすることでもよさそうですが、主人公はそこそこ長い話になることを想定していたでしょうから、ここは「昼休み」でなくてはいけない。となるとやはり給食時間からの昼休みにしてほしいところです。(給食時間の終わりに、教室内で騒いでいる生徒がいることが、良いか悪いかは別として・・・)

話変わって、前回説明的文章の「モアイは語る」についても、いろいろと思うところを述べさせていただきました。何度かの教科書検定を経て、結構なロングセラー?の教材になっていますが、ある一カ所で微妙に表記が変わっていまして、なぜなんだろう?と疑問に思っていました。その表現とは何かというと

(旧表記)このまま人口の増加が続いていけば、二〇三〇年には八十億を軽く突破し、二〇五〇年には百億を超えるだろうと予測される。

(現表記)このまま人口の増加が続いていけば、二〇三〇年には八十億を軽く突破し、二〇五〇年には九十億を超えるだろうと予測される。

という違いです。私自身は非常に大雑把な性格だし、まぁ十億くらいどうでもいいや、と流すこともできるのですが、これが(旧表記)九十億→(新表記)百億ならば素直に納得なんですが、実際の表記が(旧表記)百億→(現表記)九十億と、逆なのが腑に落ちない。この何度かの検定の間に、人口増加の割合が下がってきた、ということなのか?しかしそんな話は聞いたことがないんだがなぁ?

ということでグーグル先生に聞いてみると、あるサイトでの二〇五〇年の予想は九十八億人、となっていて、まぁ「九十億を超えるだろう」は合っているんですけど、だったらそれ以前の「百億」という数字はどこから出てきたのだろうか?などということが引っかかるんですよねぇ。(偏執狂まっしぐらで恐縮ですが)

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似たような話をもう一つ。これまたロングセラー?でベストセラー?の、ヘルマン・ヘッセ作、髙橋健二訳の「少年の日の思い出」の中からです。お読みいただいている方々は覚えていらっしゃいますかね?あなたが覚えている、「僕」が「エーミール」のところから盗み、はずみでつぶしてしまったのは、「何という虫」の標本でしたか?

ヤママユガ」と答えたあなた、きっとかなりなご高齢ではナイスミドルですね。若い現役世代は「クジャクヤママユ」と答えるんですよ。ご存じでしたか?改めて確認しましたが、旧教科書も現行教科書も「髙橋健二訳」とあるので、きっとなんらかの事情で教科書会社の方で変えたのだろうと思います。(ここで本来なら原典のドイツ語表記にあたってみれば良いのですが、そんな熱意も向学心もないのが申し訳ない。第一、大学で第二外語ドイツ語を取ったはずなのに、グーテンモルゲンとグーテンタッグとダンケシェン、くらいしか覚えていないのが何というか情けない。あ、あと小池某のおかげでアウフヘーベンも。・・・あれ?シュワルツランツェンレイターって何だっけ?)

勝手な推論として、おそらく私自身がそうだし、結構そう言っている生徒も多いのですが、「蛾が嫌い」だからじゃないか?と仮説を立ててみました。いや、生徒の中には、ワークブックに載っているヤママユガクジャクヤママユの写真を見るだけで悲鳴を上げる子もいたりするんですよ。だから少しでも「蛾」っぽさを打ち消すために、ちょっと綺麗っぽいイメージのある「クジャクヤママユ」と表記を変えたんじゃないのか?そこにはひょっとしたら生徒からの苦情なんかも影響してるんじゃないのか?なんてくだらないことを考えていました。(世の中のほとんどの方の答えは「どうでもいい」だとは思いますけどね。)と、ここまで想像したところで「グーグル先生」に聞いてみると、こんな記述がありました。(ナンデモシッテルグーグルセンセイスゴイ)

ドイツ文学者であり、虫屋でもある岡田朝雄氏によれば、クジャクヤママユという蛾には3種あり、それぞれオオクジャクヤママユ、クジャクヤママユ、ヒメクジャクヤママユと言われる。そのうちオオクジャクヤママユは少年のポケットに入れるには大きすぎ、ヒメクジャクヤママユはそれほど珍しい蛾ではないことから、物語の蛾はクジャクヤママユが妥当だと推測している。

・・・なるほど。「ヤママユガ」で画像検索すると、とてもポケットに入りそうもない巨大な蛾がヒットしてきます。(15センチくらい?)うーむ、お好きな方にはたまらないかと(©西原理恵子)思いますが、私にはかなり気持ち悪い。いくら「思わず」とはいえ、ポケットに入れるなんて信じられない。鳥肌が立つ。結局、「サイズ」というまことに現実的な、そして学術的な裏付けによって、「ヤママユガ」という大雑把なくくりから、リアルな「クジャクヤママユ」という表記に変わった、ということが分かりました。やっぱり餅は餅屋ですね。何かの本で(ギャラリーフェイク、だったかな?)蝶の収集は金持ちの究極の趣味、みたいなことが書いてあったと思いますけど、何事もヲタクマニアの方の知識ってのはつくづく凄いと感心しました。

そういえば、「昆虫の写真が気持ち悪い」とか言われて、ジャポニカ学習帳の表紙から昆虫のアップの写真が消えて花になった、なんてニュースも昔ありましたよね。今どうなってるのかな?

では、話のついでに次回から「少年の日の思い出」についての話など書いていこうと思います。お時間があればおつきあいください。どっとはらい

 

 

 

「モアイは語る」についての「禁断?の授業」

2年生の説明的文章で「モアイは語るー地球の未来」という題材があります。以前のブログで「筆者のドヤ顔がうかがえる」という、見ようによってはまことに失礼な内容を書かせていただきましたが、今年度の授業をするにあたって、とうとう教科書の扱いのタブーにふれてしまいまして、教育委員会に呼び出されて、「メッ!」ってされるかもしれません。何かというと、モロに教科書の内容をひっくり返したYouTubeを生徒に見せました。(もちろん一通りの学習を終えて、参考資料として見せたわけですが)まぁ生徒の「今までの授業は何だったんだ!?」感の漂うこと漂うこと・・・

ところで、私自身もこの「モアイは語る」については、かなり昔からちょっと疑問を感じていました。一つは、本当にヤシの木のコロで、「溶岩だらけの火山島を十キロも二十キロも運」ぶことが可能なのだろうか?ということです。相当の大きさと重さのあるモアイを、ヤシの木のコロで運んだら、ヤシの木が潰れてしまって動かなくなるのではないか?と以前から疑問視していました。で、これについてはもうかなり前から、あるテレビ番組(何だったかも思い出せない)で、「モアイを歩かせる」斬新な方法で移動させる映像を見て、「これだ!」と思い、インターネットで動画を探して、授業が全て終わってから生徒に見せて締めくくりにしていました。左右と後ろの三カ所で縄でつないだモアイを、左右に揺さぶりながら少しずつ前に進めていく方法は、私たちも重いものを移動させるときによく使う手法です。コロよりはずっと手間がかからないし、木を切る必要も無いので、私はこちらの「モアイを歩かせる」方法がすっと腑に落ちました。画像を見終わったあと、歩かせる方式だったと考える生徒の方が圧倒的に多かったです。実際にどうだったのかははわかりませんけれど、この段階で「教科書批判」ととられるのならば、「禁断の?授業」だったと言えるでしょう。(「教科書批判」ととられておしかりを受ける危険性は感じつつも、知ってることは教えたがるあたりが自己満へそ曲がり流。)

二つめとしてはこの表現→「人口は100年ごとに二倍ずつ増加し、十六世紀には一万五千から二万に達していたと推定されている」という記述と、「十一世紀に人口が急激に増加を始めた」の整合性です。十六世紀に二万と書いてありますが、ならば逆算してして、単純な倍々ゲームだったとしたら十五世紀は一万、十四世紀は五千、十三世紀は二千五百、十二世紀は千二百五十・・・十一世紀には千人以下だったことにならないか?そんな人数しかいなくていきなりモアイを作り始めたりするだろうか?などということも引っかかっています。(まぁもちろんこれは単純な倍々ゲームではなかったのでしょうが、理屈バカの典型例ですね。)

三つめとして、「ヤシの花粉の量は、七世紀頃から、徐々に減少していき」と書いてありますが、モアイを作り始める四〇〇年前から徐々に減少していたのなら、作り始めた十一世紀段階で既にかなりヤシの木は枯渇していたことにならないか?というあたりも引っかかります。本当にヤシの枯渇がイースター島の文明崩壊の原因なのだろうか?などとモヤモヤしたままずっと授業をしてきましたが、今年度ひょんなことからイースター島にかかわる、あるYoutubeを見ていたら、何と「最新の学説」として、前述の「歩かせて移動させた」説とともに、イースター島の人々がいなくなった原因として、「奴隷商人による拉致」+「その際に持ち込まれた疫病」が原因、という説が紹介されていたのです。正直どちらも個人的には教科書の内容よりずっと信憑性が高いように見えました。教科書の記述を否定する気持ちも、筆者をディスるつもりもありませんが、今年の生徒には全ての授業が終わってからその新説のYoutubeを見せ、「信じるか信じないかはあなた次第です」と授業の締めとしました。余計なことをしたのかなぁ。でも事あるごとに「教科書だろうが何だろうが、盲目的に信じるのはやめろ」と言ってきた手前、自分が知った以上伝えるべきだろうなぁ。うーん。

https://youtu.be/8vJP9--vSMY

(・・・と、迷ったふりこそしていますが、今までも散々国語の教科書の表現や内容のおかしな所を指摘してきたんですから。ナニヲイマサラ、ですよね。)

ちなみに、前回残した凡ミスですが、皆さんおわかりでしたか?(もしおわかりでない方のためのヒント「普通の中学校ならもれなくあるはずの何かが、この学校にはない」ということです。その一文がこれです。)

自習時間が終わり、昼休みに入った教室はがやがやしていた。

それではまた、よろしければ次回も読んでやってください。

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