ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

「星の花が降るころに」についての考察その4

ご覧くださっているごく少数の皆様。お待たせしました。お待たせしすぎたかもしれません。さて、いかにネタが少ないとはいえ、見え見えの引っ張りはこれくらいにして、いきなり本題に入ります。前回提示しました「星の花が振るころに」の中のこの表現、サッカーボールはぬい目が弱い。そこからほころびる。だから砂を落としてやらないとだめなんだ。使いたいときだけ使って、手入れをしないでいるのはだめなんだ。いつか戸部君がそう言っていたのを思い出した。」が暗示しているであろうこと。それはズバリ!

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「対人関係」のことでしょう!(あ~あ、言い切っちゃったよ。)この話の中の夏実と主人公の関係、つまり「小さな誤解やすれ違いを繰り返すうちに、何となく疎遠になってしまったこと」「それを何とかとりつくろおうとしてもうまくいかなかったこと」を、「サッカーボールの縫い目」で象徴しているのだと、「自己満へそ曲がり流」読解では考えます。つまりこう読み換えられるのではないか?と考えました。↓

「サッカーボールは縫い目が(=人間関係はもともと別々の人格が合わさっているのだからつながりが)弱い。そこから(=だから人間関係はちょっとしたことで)ほころびる。だから砂を落としてやらないと(=常にどんな状態か気をつけていないと)だめなんだ。使いたい時だけ使って、手入れをしないでいる(=自分の都合の良いときだけ友達関係を主張しようとする)のはだめなんだ。」

・・・どうでしょう?まぁ「こじつけだ!」と言われればそうかもしれませんが、いかにも作家先生が使いそうな暗示、隠喩じゃないですか?無くても話が通るのに、わざわざ内容に関係なさそうな記述を入れる理由はこれだと思い、生徒には「これって何かに似てないかい?」と投げかけています。(まぁこの投げかけですぐピンとくる生徒はほとんど、というか皆無だったかな?)結局は講義型の授業になってしまうんですけれど、これを中学1年から引き出すスキルは、残念ながら私にはありませんでした。みなさんはどうお考えですか?

私はよく教材の小説を一言で「〇〇がXXになる話」とまとめて終わることが多いのですが(「夏の葬列」は「心のわだかまりを軽減しようと思ったらむしろ倍になってしまった話」とまとめました。)この「星の花が振るころに」は、「二人で安全地帯にこもっていた主人公が一人で出て行く話」とまとめることができるかと思います。ところでこの話の時期は9月、つまり夏が終わり秋に向かうころの話ですが、ひょっとしたら「夏実と別れる」というのも「夏から脱却する」「夏の実が落ちて秋になる」ということの暗示なのではないでしょうか?・・・さすがにこの名前についての推論は「ゲリマンダー的」「我田引水」と言われますかね。でもまぁこういうくだらないことを、色々考えられるのが、国語という教科の懐の深さ面白さだと私は思っています。いいんですよ国語は、どんどん自由に発想しても。世界観がぶち壊しにさえならなければ。(イイノカネカッテニソンナコトイッテ)

で、このよくできた小説ですが、たった一カ所凡ミスがあり、これを例によって、今度は光村図書に電話したわけですが、反応は例によって、「参考にさせていただきます。上の者には伝えておきます。ツーツー。」でした。ただ、前回の2つと違って、今回の凡ミスは、生徒に何ページにあるかだけ伝えれば、結構多くの生徒があっさり見つけられる内容です。皆さんにもそのページ(見開き分)を載せておきますので、「凡ミス」を見つけてみてください。(※ただし、凡ミスとは言え、佐野洋的に言えば「これを裁判所で証言したら絶対負けますよ。」レベルの事柄です。)では読んでみてください。

 銀木犀の花は甘い香りで、白く小さな星の形をしている。そして雪が降るように音もなく落ちてくる。去年の秋、夏実と二人で木の真下に立ち、花が散るのを長いこと見上げていた。気がつくと、地面が白い星形でいっぱいになっていた。これじゃふめない、これじゃもう動けない、と夏実は幹に体を寄せ、二人で木に閉じ込められた、そう言って笑った。

 ──ガタン!
 びっくりした。去年のことをぼんやり思い出していたら、机にいきなり戸部君がぶつかってきた。戸部君は振り返ると、後ろの男子に向かってどなった。
「やめろよ。押すなよなあ。俺がわざとぶつかったみたいだろ。」
 自習時間が終わり、昼休みに入った教室はがやがやしていた。
 私は戸部君をにらんだ。
「なんか用?」
「宿題をきこうと思って来たんだよ。そしたらあいつらがいきなり押してきて。」
 戸部君はサッカー部のだれかといつもふざけてじゃれ合っている。そしてちょっとしたこづき合いが高じてすぐに本気のけんかになる。わけがわからない。
 塾のプリントを、戸部君は私の前に差し出した。
「この問題わかんねえんだよ。『あたかも』という言葉を使って文章を作りなさい、だって。おまえ得意だろ、こういうの。」
 私だってわからない。いっしょだった小学生のころからわからないままだ。なんで戸部君はいつも私にからんでくるのか。なんで同じ塾に入ってくるのか。なんでサッカー部なのに先輩のように格好よくないのか。
「わかんないよ。そんなの自分で考えなよ。」
 隣の教室の授業も終わったらしく、椅子を引く音がガタガタと聞こえてきた。私は戸部君を押しのけるようにして立ち上がると廊下に向かった。

 

・・・もう皆さんおわかりだと思いますが、一応答えは次回にさせていただきます。「結局引っ張るのかよ!」とお思いでしょうが、教科書や国語の授業だけに限定すると、そうそうネタはないのですよ。それではまた次回、よろしければ見てください。

 

「星の花が降るころに」についての考察その3

改めて言うのも変ですが、私はほとんど教材研究をしたり、指導書見たりはしません。その上で、教科書の文章表現だけから以下のことを述べています。したがって、ちゃんと教材研究をしていたり、指導書を確認している先生方にとっては、今私の書いている内容なんて「そんなの当たり前に教えているよ。」とか「普通に指導書に載っているよ。」というものになっているかもしれません。だとしたら「ゴメンナサイ」。基本的に、私が在籍した今までの学校の、同僚の先生が教えていないような内容を取り上げています。(でも考えてみたら、こういう言い方をすると同僚の先生をディスってることになってしまうなぁ、うーん・・・)

前回は、主人公が気づかないうちに、格好よく成長していた戸部君が、主人公に語ったセリフについて考察する、という所で終わっていました。私は最初にこの小説を読んだ時、このセリフに以前このブログで書いた「違和感」をかなり強く感じました。というか、このセリフが無かったとしても、全然前後が普通につながるはずなのに、なぜこんな持って回ったような表現を作者は入れたのか?作家が書いた表現には、必ず何らかの意図がある、という前提で読んでいくならば、この一見無駄に見える記述にも何か裏の意味があるはずだ。そう考えて読み直し、そしてこの記述が話全体の大切なテーマに関わる事柄の「暗示」あるいは「隠喩、暗喩」になっていることに気づきました。前回触れたように、今までの同僚でそのことに触れて授業をしていた先生はまずいなかった(あくまでも当社比です!)ので、恐らく中学生レベルでは不要な読解なのかと思いますが、自己満へそ曲がり流では、気づいたら教えずには済ませられない性分(この辺が偏執狂自己満的)なので、生徒に振ってみました。まずその表現を前後の流れも含め抜粋してみます。

 戸部君の姿がやっと見つかった。

 なかなか探せないはずだ。サッカー部の練習をしているみんなとは離れた所で、一人ボールを磨いていた。

 サッカーボールはぬい目が弱い。そこからほころびる。だから砂を落としてやらないとだめなんだ。使いたいときだけ使って、手入れをしないでいるのはだめなんだ。いつか戸部君がそう言っていたのを思い出した。

 日陰もない校庭の隅っこで背中を丸め、黙々とボール磨きをしている戸部君を見ていたら、なんだか急に自分の考えていたことがひどく小さく、くだらないことに思えてきた。

上記のうち、下線の部分って、無くても普通につながりませんか?削るとこうです。

なかなか探せないはずだ。サッカー部の練習をしているみんなとは離れた所で、一人ボールを磨いていた。日陰もない校庭の隅っこで背中を丸め、黙々とボール磨きをしている戸部君を見ていたら、なんだか急に自分の考えていたことがひどく小さく、くだらないことに思えてきた。

下線部は、不自然とまでは言わないし、戸部君が意外と物を真面目に考える一面があるんだ、という性格描写とも考えられますが、他の生徒が練習している中で一人ボール磨きをする行為だけでも、十分「意外と」真面目だということは伝わりますよね。だとしたら・・・「作者がわざわざこの太字の部分を付け加えた理由は何だと思う?」・・・チーン。はい、まぁ生徒のポカーンとした顔ときたら。とはいえ、これをお読みいただいている方で、「星の花の振るころに」をお読みでない方ならば、やはりポカーンですよね。では、遅まきながらあらすじを紹介させていただきます。

「中一の主人公は、公園の銀木犀の、まるで丸屋根のような枝の下で、親友の夏実と二人だけの世界に浸っていた、去年の秋のことを思い出していた。地面に散った星形の白い花に囲まれ、「これじゃ踏めない ここから出られない 二人で木にとじこめられた」と言って笑ったことを思い出していた所に、小学校から一緒だった戸部君がぶつかってきた。「あたかも」がどうしたこうした言っている戸部君を後にして、昼休みになったのをきっかけに、隣のクラスの夏実に話しかけようとして廊下に出た主人公。実は中学に上がってから、最初は一緒に帰っていたのに、小さなすれ違いや誤解を繰り返すうちに、別々に帰るようになってしまい、疎遠な関係になっていたのだ。今日こそは話しかけようと、ポケットに入った去年の秋拾った銀木犀の花を入れた袋を撫でながら、夏実が来るのを待つ主人公。そして現れた夏実に話しかけようとしたのと同時に、夏実は今のクラスメートからも声をかけられ、戸惑いながらも主人公から顔を背け、その友達と一緒に通り過ぎていった。呆然とする主人公が、はっと我に返ると、教室から戸部君がこちらを見ているのに気づく。泣きそうなのをごまかすため、窓から外を見て、友達を探すふりをする主人公。本当は夏実以外に友達なんて呼びたい人はいないのに。放課後になり、主人公は「どこまでわかっているのか」を探るために、サッカー部の戸部君を探す。ところが戸部君は一人で熱心にボール磨きをしていた。自分の考えがちっぽけに感じた主人公が水で顔を洗い冷静さを取り戻した所に、戸部君が話しかけ、ジョークで主人公の心をなごませてくれる。その後、学校からの帰りに銀木犀のある公園を通ると、公園掃除のおばさんと出会い、常緑樹である銀木犀も、実は古い葉を落として新しい葉を生やしていかないと生きていけないことを教わる。主人公は銀木犀の木を下から見上げ、ポケットの去年の銀木犀の花を取り出し土の上にパラパラと落とし、「きっと何とかやっていける」と新たなきもちになり、銀木犀の木の下から歩きはじめる。

うーん、大事な表現をかなり省いてしまったので、ちょっと読解するのは厳しいと思いますが、どうでしょう?「作家は無駄なことは書かない。違和感を感じる表現には必ず裏の意味がある」理論で言うと、上で書いた「サッカーボール」の話には、絶対に作者が裏の意味、何らかの内容に関連する暗示(隠喩)を入れているはずだし、作者はそう読み取ってもらいたがっていると思うのですが。この「自己満へそ曲がり流」読解はまた次回書かせていただきます。併せて、この良く出来た小説の、たった一カ所の凡ミスについても。それではまた、お時間があれば読んでください。

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「星の花が降るころに」についての考察その2

さて、色々突っ込んで読みたいところが満載のこの小説ですが、調査したわけではないし、詳しく教材研究をしたり、指導書を読んだりもしていないけれど、単純に文章表現だけから読解して、「ここ面白いところなんだけど、あまり触れている先生がいないなぁ」という箇所が結構あります。なぜ他の先生のことが分かるかというと、授業が終わった後で、他の国語の国語の先生の板書を見るのがルーティーンだからです。(チャントウチアワセスレバイイダケナノニネェ、ヒソヒソ)板書を見れば、おおむね教えている内容は想像がつきます。(もちろん、板書せずに口頭で触れている場合もあると思いますけれど。)で、前回書いた「戸部君が押されて主人公にぶつかってきた時」の話ですが、ぶつかってきて、「この問題わかんねえんだよ」と聞いてきた戸部君をにらんだ主人公が言うセリフ。

私だってわからない。いっしょだった小学生のころからわからないままだ。なんで戸部君はいつも私にからんでくるのか。なんで同じ塾に入ってくるのか。なんでサッカー部なのに先輩のように格好よくないのか。

・・・99%の先生が、この3つの疑問について生徒にこう発問するでしょうし、学級によりますけど多くの生徒はこう答えるでしょう。

発問1「なんで戸部君はいつも私にからんでくると思う?」答え「主人公のことが好きだから!」(若干名「え!そうなの?」と驚く生徒がいるのがデフォ)

発問2「なんで同じ塾に入ってくると思う?」答え「主人公のことが好きだから!」(発問1より多めの生徒が「え!そうなの?」と以下略)

で、発問3は結構難問で、「なんでサッカー部なのに先輩のように格好よくないと思ったと思う?(言い方!)」答え(かなりシャレっ気のある生徒が)「私だってわからない。」(←この答えはセンスがあると思いましたね。)

(かなり読解力のある生徒がおずおずと)「サッカー部のだれかといつもじゃれあっていて、本気の喧嘩とかばかりしてるので、先輩と比べてガキくさく感じたから。」

うん、中学生の回答としてはこれで満点だと思います。しかしながら、「自己満へそ曲がり流」の読解ではもう少し突っ込んだ回答を期待したい。それは何かというと(まぁいないと思いますが、もしこのブログを読んでくれている、中学生の読者がいたら考えてみてください。)こういう読み取りを期待したい。

「気づいてないだけ」

・・・なんだそりゃ?と思うでしょうね。事実今まで他の先生の授業後の黒板を覗いて見ても、「ガキくさい子供っぽいと思っていたから」という板書はあっても(1割くらい)「気づいてないだけ」という板書は見たことがありません。だから、そこまで教えている(私のような自己満でへそ曲がりの)先生はあまりいないのだと思います。ただ、私的にはこの「本当は格好よくなってたんだけど、主人公が気づいていないだけ」という見方は、後々テーマにも関わってくる大事な読み取りだと考えています。この小説の最も大切なテーマは、「主人公の気づきと成長」だからです。

では、主人公の「格好よさ」はどのあたりからうかがえるか。これについてはほとんどの先生が触れていると思います。(以下、教科書を読んだ人限定になってしまいますが悪しからずご了承ください。)

①主人公が「繊細さのかけらもない」と思っていた戸部君が、凹んでいた私を元気づけるために、「伏線を活かして」「自然な感じで」笑わせてくれたこと。←これってかなり繊細で高等なテクニックですよね。もしも「お前、夏実とトラブってただろ?大丈夫か?」なんてストレートに聞いたりしたら、主人公どうなっていたでしょうね?

②「ちゃんと向き合ったことがなかったから気づかなかったけれど、私より低かったはずの戸部君の背はいつのまにか私よりずっと高くなっている。」・・・いつのまにか「ガキくさいチビ助」じゃなくなっていることに、初めて気づいた瞬間ですね。それも「ずっと」高くなってて、格好いいじゃないですか。そして何といっても、

③「サッカー部のだれかといつもふざけてじゃれ合っている」はずの戸部君が、ふと気づくと、「サッカーの練習をしているみんなとは離れた所で、一人ボールを磨いていた。」「日陰もない校庭の隅っこで背中を丸め、黙々とボール磨きをしている戸部君」

・・・格好いいじゃないですか!主人公が「おい」と声をかけられただけで、ずっと耳になじんでいた声だからすぐわかる戸部君とは、まったく違う姿の彼がそこにいます。(声変わりしてないのかよ?という野暮なツッコミはなしにして)主人公が過去に囚われて足踏みしている間に、戸部君は実は格好よく成長していたんです。ただ、主人公は「ちゃんと向き合ったことがなかった」から、「気づいてないだけ」なんです。(そういえば、2年生の教科書の最初には「見えないだけ」という詩が載っていましたね。)

で、この③の時に主人公が思い出した、かつて戸部君が主人公に言ったセリフ。これについてもほぼ触れている先生がいなかったので(当社比)次回はこのセリフについて読解していきます。以前触れた「違和感」が大いに関係してきます。近日公開、お時間があれば読んでやってください。(ヤバイ!2000字を超えてしまった。駄文長文失礼しました。)ではまた。

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「星の花が降るころに」についての考察その1

突然ですが、私はパソコンのプログラムやハードについては全然わかりませんが、ネットにはISDNの時代から繋いでいて、2ちゃんねるなんかもよく見ていました。それがどうしたかというと、私はこの「星の花が降るころに」の作者である安東みきえさんは、ひょっとしたら「2ちゃんねらー」だったのではないか?という疑惑を感じている、ということなんです。まぁもしそうだったとしても、別にどうということはないのですが、どうしてそう感じたのかというと、この小説のかなり重要なキーワードである「あたかも」の扱い方について、初読の時に「あれ?これどっかで見たな?」と思ったからです。(※注!パクりだと言っているわけではありません!)教科書の解説によれば作者は1953年生まれで、私の一世代上の方ですが、だとしたら十分パソコン通信や、2ちゃんねるに触れていても不思議のない年代です。で、「あたかも」と2ちゃんねるの関係についてです。

そもそも小説の中では、主人公のJCと、密かに(といっても主人公以外にはバレバレの)主人公に想いを寄せるサッカー部の男子(以後矢部君)との会話の中に、この言葉が2回出てきます。1回目は、他の男子に押されて主人公にぶつかり、内心嬉しいくせに怒ってみせた矢部君が、塾の宿題として出された「あたかも、を使って短文を作れ」の答えを、主人公に聞く場面。もう1回は(注!以下ネタバレを含みます)あることで凹んでいた主人公を元気づけるため、わざと矢部君はこう話しかけた場面。

「俺、考えたんだ。」略「ほら、『あたかも』という言葉を使って文を作りなさいってやつ。」略「いいか、よく聞けよ・・・おまえは俺を意外とハンサムだと思ったことがー」にやりと笑った。「ーあたかもしれない。」

生徒のうちほとんどは、矢部君が主人公の気持ちをほぐすために、わざと間違った用法で文を作ったことは理解します。(若干名、矢部君が「頭が悪い」んだ、と考える生徒もいますが、「にやりと笑った。」という表現から、天然ではなく「確信犯」であることがわかります。というか作者はそう読みとってもらいたがっています。)で、この「あたかもしれない」が、たまたまの作者の思いつき、だったとしたらまことに失礼な濡れ衣になるんですが、この「勘違い短文」は、かなり昔からネット上のギャグの一分野として流通していた内容なんですよね。「○○を使って文を作れ」の答えの例として

あたかも→冷蔵庫に牛乳があたかもしれない

まさか〜ろう→まさかりかついだきんたろう

うってかわって→彼は麻薬をうってかわってしまった

もし〜なら→もしもし、奈良の人ですか?`

どんより→私はうどんよりそばが好きです

・・・私が覚えているのはこれくらいですが、少なくとも20年以上、下手したら30年くらい前には、ネット上に載っていた有名なギャグです。改めてここで、勘違いしないでいただきたいのですが、私は安東さんが「パクったに違いない!qあwせdrftgyふじこlp;@:「!(←これもかなり懐かしい)」と批難してるわけではありません。借用したとしても、自分の表現としてきちんと消化して使っていますから、何ら問題はありません。(また、もし「ネットなんて見たことはなかったし、オリジナルのアイディアである」としたら、大変失礼なことを言ってしまって申し訳ありませんでした、とこの場を借りてお詫び申し上げます。そもそもこのようなギャグを思いつくのは、それほど珍しいことでもないですし。)私はむしろ、こんな古めかしいギャグが、今の生徒にもウケていることを、元2ちゃんねらーとしてうれしく思っています。

さて、ひょっとしたら失礼な話になってしまったかも知れませんが、この「星の花が降るころに」は、ある一箇所の表記を抜かして、いろいろ突っ込んで生徒に読み込ませたい、含みを持った面白い表現がたくさんある、優れた小説だと思います。(←取り繕っているつもりはないのだけれど、なんか言い訳がましく見えるなぁ・・・)

次回からは、何回かに渡って、多分あまり他の国語の先生が突っ込んでいないであろう箇所に、高校生レベルのマニアックな読み取りをさせた授業の内容をご紹介します。お暇があれば読んでやってください。どっとはらい

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教科書会社に電話した話その5

前回の続きです。『「新しい博物学」の時代』の中の表記に引っ掛かりを感じた私は、以前書きました「卵」から数年後、また教科書会社に電話をしてみました。ただし、今回の電話は正直「ツッコミを入れるのは野暮な内容」であることは重々承知の上でした。専門家である筆者は絶対に分かっているはずなのに、あえてドラマチックな展開にするために、そのような表記にしたんだろうな、と想像しつつも、どうしてもツッコまずにはいられなかったのは、私の性格の悪さが如実に現れた結果だと自認しています。さて、私が引っかかった表記は以下の部分です。

「定家の記録と最新の技術とを合わせることによって、超新星爆発が起こった年が一〇五四年というように決定できたのです。」

いかかでしょうか。文章全体でも一番盛り上がる箇所なので、逆に私は強く引っ掛かりを感じました。「かに座の超新星爆発が、地球上で目撃されて、明月記で記録されたのが一〇五四年なので、この年に超新星爆発が起こった」という内容ですよね。ところで、かに座はどこにあるかというと、ウィキによれば地球から「7000光年」離れているとのこと。・・・もうお分かりですね。「7000光年ということは、光の速度で7000年かかる距離である。だとしたら、地球上で一〇五四年に目撃されたのならば、実際の爆発は「それよりも7000年前」だということ。野暮を承知でさらに言うならば、7000光年はおよそ、であり、おそらく数年、下手したら数十年くらいは『誤差の内』になるだろう。だとしたら『超新星爆発が起こった年は一〇五四年』という表記はおかしいのではないか?」と、こう電話してみたわけです。・・・はい、お読みいただいている皆様はきっと、あまりの野暮なツッコミにドン引きなさってますね。だいいち、「超新星爆発が起こったのは一〇五四年からおおよそ7000年くらい前と決定できた。」では、盛り上がりもへったくれもあったもんじゃないですよね。

この電話に応対してくれた会社の方の対応は、細かくは覚えていませんが「厳密に言えば確かにそうなんですがゴニョゴニョ」といった感じでした。そしてお決まりの「担当者に伝えておきます。ご指摘ありがとうございます。」という感じでオシマイ。(そして案の定、謝礼の話は出ませんでした。多分都市伝説なんでしょうね。)

当然ですが私は、定家の「明月記」の、記述の重要性や貴重性を否定するつもりは毛頭ありません。それに、古人の営みを現代科学に結びつける考え方、ものの見方は面白いし素晴らしいと思っています。ただ、恐らくこの記述は、ちょっと天体に関する知識を持っている中学生なら、私と同じような引っ掛かりを感じる子がいるんじゃないかとも思ったのです。(私自身は、高校時代物理や化学で赤点を食らっていたレベルの、全く理系オンチですが、そんな私でも「おや?」と思うのですから。)

長い教師生活の中で、教科書会社に入れた電話は3回です。またいずれ、3回目の電話の内容について書かせていただきます。次回は「星の花が降るころに」についての小ネタを。(実は3回目の電話は、この「星の花が〜」についてのものだったのですが、教科書をお持ちの方は、もう一度読み直してみてください。「あれ?」と思うところがありますから。)それではまた。

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ヤマトは14万8千光年を約1年で往復したわけですが。

教科書会社に電話した話その4

もちろん極論であり、この辺が「へそ曲がり」なわけですが、私は授業の中でよく生徒に、「性格の悪い人は国語ができるはず。」と言ったりしています。どういうことかというと、「人の揚げ足取りがうまい」とか、「人のしくじりに目ざとい人」は、国語の読み取りがうまい(はず)だという意味です。(※注!だからといって「国語ができる人がみんな性格が悪い」ということではありません!)

まぁその「性格の悪い典型」が、常に鵜の目鷹の目で突っ込みドコロを探している、この私自身であることは自覚も自負もしています。(←自負はマズいだろうに)しかしながら、文章を「何か裏の意味はないか?」とか、「何か矛盾点はないか?」と考えながら読むことは非常に大切なことです。私自身は、ミステリー小説を好んで読んでいたことが影響して、こんなへそ曲がりややこしい読み方をするようになったのでしょうが、生徒にも「教科書でもその他の本でも、字面だけ読んで全部分かったつもりになっていたらもったいないぞ」ということは伝えたいですね。

前置きが長くなりましたが、今回のお題「教科書会社に電話した話」の教材は、15年くらい前の、教育出版3年生の教科書「『新しい博物学』の時代」についてです。で、私がいちゃもん疑問を呈した部分を引用します。

(前略)かに星雲は、おうし座ゼータ星の近くにある、熱いガスの塊が多数群れている星雲です。望遠鏡で見ると、星雲の形が、かにの甲羅の形に似ているので、かに星雲と呼ばれています。大きな望遠鏡で詳しく観測すると、強い光が筋状に走っており、その光は激しいエネルギー放出が起こっているために発生していると考えられています。
 年を隔てて撮った写真を詳しく調べると、かに星雲は高速度で膨脹していることがわかります。これは、かに星雲超新星爆発の残骸であるためだと推定されています。爆発で誕生したガスやちりのようなものが膨脹し続けているのです。では、この超新星爆発はいつ起こったのでしょうか。星雲の膨脹速度をもとにして計算してみますと、約九〇〇年前だろうという結果が出ました。しかし、現代天文学の最新の技術と知識を導入しても、爆発が起きた年を正確に割り出すことは不可能でした。
 この問いに示唆を与えてくれる文書が、ある日本人のアマチュア天文家によって指摘されました。「小倉百人一首」の編者として有名な藤原  定家の日記『明月記』です。定家がそれを書き始めたのは一一八〇(治承四)年で、十九歳のときでした。以来定家は、五十六年間書き続けた日記のいたるところで、さまざまな天文現象を書き留めています。そして、自分が見たこととともに、それと同じような天文現象が過去になかったかどうかを丁寧に調べて、書きつけているのです。定家は著名な歌人ですが、朝廷の役人が本職であり、前例を調べるのが習慣となっていたようです。
 一二三〇(寛喜二)年十月二十八日、客星(訪れ、去っていく客のように、一時的に輝く星や彗星のこと)の出現を目撃した定家は、その様子を毎日のように詳しく日記に書きつけるとともに、過去の文献を読んで前例がないかどうかを調べました。『明月記』の十一月八日の項には、過去の客星の出現例が八例載っています。
 次の文章は、その出現例の一つです。

後冷泉院の天喜二年四月中旬以後、丑の時客星が觜參の度に出づ。
東方に見はれ、天関星に孛す。
大きさ歳星の如し。

後冷泉帝在位の天喜二(一〇五四)年四月中旬以後に、深夜二時ごろ、新しい星がオリオン座の方向に出現した。
東の方向に現れて、おうし座ゼータ星近くで明るく輝いた。
大きさは木星くらいである。

 この記録に表された星の位置は、かに星雲の位置とぴたりと一致しました。さらに、一〇五四(天喜二)年は、かに星雲超新星爆発が起きたと推定される時期とも一致します。定家の記録と最新の技術とを合わせることによって、超新星爆発が起こった年が一〇五四年というように決定できたのです。
 ならばと、世界じゅうの天文学者によって、定家が記録した他の例も調べられました。その結果、一〇〇六(寛弘三)年のおおかみ座の超新星爆発と一一八一(養和元)年のカシオペヤ座の超新星爆発も、定家の記録と一致することがわかりました。さらに、現代では、定家によってもたらされた明るさやその時間変化の克明な記録から、爆発した星のタイプや重さも割り出せるようになりました。
 以来、天文学者は、中国や日本の古典を調べて、天文現象の記録を調べるようになりました。(後略)

 

併せて「かに星雲」についてウィキペディアから一部抜粋

かに星雲[1](かにせいうん、Crab Nebula 、M1、NGC 1952)はおうし座にある超新星残骸で、地球からの距離はおよそ7000光年。典型的なパルサー星雲で、中心部には「かにパルサー」と呼ばれるパルサーの存在が確認されており、現在も膨張を続けている。

この星雲の元となった超新星爆発が1054年に出現したことが、中国や日本の文献に残されている

さて、いったい私はこの教科書の記述のどこにクレーム疑問を感じ教育出版に電話をしたと思いますか。長くなりましたので続きはまた次回。お時間があれば読んでやってください。

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かに星雲





 

説明的文章を読むときのヒソカな楽しみ方

さて、教科書にはいろいろなジャンルの教材がありますが、正直私は説明的文章があまり好きではありません。小説と違ってあれこれ推理する場面がなく、「読めば分かる」ように書かれているからです。自分の授業が下手くそなことを棚に上げて言いますが、どうも説明的文章の授業は、数学で答え合わせをしているような感じがしてしまいます。私の授業だからかもしれませんが、生徒の食いつきも今ひとつ、という気がします。おそらく、説明的文章には「筆者の気持ちを読みとる」とか、「行間を読む」ような場面が少ないからじゃないかと思います。(評論文なんかは逆に、表現が小泉進次郎ポエムっぽすぎて、何を言ってるのか分からなかったり、筆者の思い入れの強さに馴染めず、食傷気味になるものもあったりしますが。)

ただ、説明文や論説文の中にも、ちょっとした表現から、筆者の気持ちが読み取れる、というか筆者の「ドヤ顔」が覗ける箇所があったりして、そこを見つけるとつい「ニヤリ」としてしまい、生暖かい目で見てしまったりするんですよ。そんな一文を見つけるのが、私の「説明的文章を読むときのヒソカな楽しみ方」です。具体的な例をいくつか挙げてみます。

例1「モアイは語るー地球の未来」の中の一文。

「この謎を解決したのが、私たちの研究だった。」・・・どうです。鼻高々な「ドヤ顔」が目に浮かんできませんか?w(断るまでもありませんが、私は決して否定しているわけではありません。どちらかというと無味乾燥になりがちな説明的文章に、血が通っている感じがして、ほっこりした気持ちになります。皆さんはどうですか?)

例2「クマゼミ増加の原因を探る」の一文

「しかし、私たちがクマゼミについてこの結論を得るまでには、何年もの間、実験や観察を重ねる必要があった。」・・・これなどは、いかにも長年の苦労のほどと、その苦労の末に結論を得た、誇りのようなものを伝えたい気持ちが、ありありと伝わってきませんか。

例3「『言葉』をもつ鳥、シジュウカラ」の一文

「人間以外に、複数の「単語」を組み合わせる能力が実証されたのは、シジュウカラが初めてです。」・・・この「初めてです」あたりに、やはり筆者の誇らしげな「ドヤ顔」が透けて見えてきます。人間誰しも、「新発見」はうれしいものです。私自身も、何度も扱ってきた教材の中に、今まで気づかなかった新たな発見があると快感すら覚えます。(そうならないためにきちんと教材研究をしておけよ、というツッコミは勘弁していただくとして。)

説明的文章では、「筆者が一番伝えたかったこと」は、大抵最後の「結論」部分に書いてありますが、「筆者が一番書きたかったこと」は、結論以外の途中に潜んでいることが多いです。そんな箇所を見つけて、筆者の顔を思い浮かべながら読む、なんてのも読書の中の楽しみじゃないか・・・まぁ、これはあくまでも「個人の感想です」けど。

しかし、こういう偏った、というか意地の悪い読み方をしていると、余計なことにも気づいてしまったりするわけで、次回は「教科書会社に電話をした話その4」として、あろうことか説明的文章の内容に噛みついた疑問を呈した話を書こうと思います。お暇でしたら読んでやってください。どっとはらい

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私の丸つけ筆記具の変遷②

変遷と言いますか、今現在の主力選手の紹介になります。つまり「柔らかくてあまり肩の凝らないソフト系」のサインペンです。と、いっても「パイロット系」と「プラチナ系」の二種類しかありません。ではまず、パイロット系の丸つけペンはこれです。

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黒の軸もあります。たしか千円弱だった気がします。キャップをした段階ではかなり短く、軽いし持ち運びも便利で、ペン先も柔らかくていいのですが、ちょっとペン先がへたるのが早い気がします。取り替えたばかりの時は堅さといい太さと良い理想的なのですが、2クラスくらい丸をつけるとかなりフニャフニャになる感じです。丸つけには支障はありませんが、何か書き込むとなるとちょっと太くなってしまっているなぁ、と思います。インクはパイロットの万年筆用のものを使います。パイロット系はこれと、前回紹介した万年筆くらいです。

次にプラチナ系のサインペンですが、これが何というか「中二病的」なんですよ。「小学生並み」と言ってもいいかもしれません。どういうことかは後ほど説明しますが、まずは定番の、それこそ「採点ペン」でググるとでてくるこれ。

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特に小学校の先生に愛好者が多いように感じます。これで丸つけしている先生をみたことありませんか?パイロットと比べるとペン先が少し固めな感触ですが、減り方はこちらの方が少ないように感じます。そして、おなじプラチナ万年筆用インクを使っているこれ。

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これの万年筆はちょっと大きめな文房具屋さんなら、必ず置いてあると思いますが、このサインペン版(マーキングペン、と書いてありますが)は、通販でないとなかなか見つかりませんし、何故か「本体165円、送料700円」とか、「おいおい」というところが多いです。(ヨ〇バシドットコムだと送料無料、他にもあるかもしれませんが)上の採点ペンよりもかなり軽いですが、これのペン先はかなり柔らかめで、先が丸くなる早さは、採点ペンよりもかなり早い感じがします。書いた感触は非常にソフトです。

で、どこが「中二病的」で「小学生並み」かというと、これをごらんください。

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採点ペンにはスケルトンの軸もありますが、「こんな軸あったっけ?」と思われる方はかなりの文房具フェチマニアでしょうな。これは実は、採点ペンの前半分を、プラチナの安い万年筆の軸につけたのです。実はプラチナの筆記具のねじ込み式のものは、全てでは無いと思いますがサイズが同じで、非常に互換性が高いんです。だから、こんなこともできちゃいます。

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しかもキャップもちゃんとしまります。まあ、「できちゃいます」と言ったところで、それをやろうとする人も少ないでしょうし、「だからどうした?」というのが正しい大人の意見でしょう。(授業中にこういうふうに、軸とかキャップとか取り替えて遊んでる小学生や中学生、結構いますよねぇ?大人はともかく。)←お前は何なんだお前は!

現在、だいたいこの3種類を、気分で取っ替え引っ替えヘビーローテーションで丸つけにいそしんでおります。北海道では3年生の受験前学力テストのシーズンまっただ中です。採点でご苦労なさっている御同輩、がんばっていきまっしょい

ということで、2回に渡って何の役にもたたない駄文を書いてまいりました。次回はまた教科書の題材を、自己満へそ曲がり流に読解していこうと思いますので、お時間がありましたら読んでやってください。・・・ん~、それにしても・・・なぁ。

「実務には 役に立たざる うた人と 我を見る人に 金借りにけり(石川啄木)」

 

 

私の丸つけ筆記具の変遷①

こういうのも何ですが、私は結構文房具マニアでして、字が汚いわりには筆記具にこだわる、というかいろいろ買いたくなる性分です。(間違っても高い万年筆とかを買ったりはしません。せいぜい千円以内で、結構いろいろ楽しめるのがイイんです。)

働き始めてからしばらくは、学校の消耗品として置いてあった、今となっては何だったかもわからないような赤ボールペンで採点をしていましたが、たまに使っていたのがこのパイロットの万年筆です。

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ノック式で先が引っ込むので便利でしたが、とにかくちょっと使わないとすぐにインクがなくなってしまうし、手が滑って落としてペン先が曲がってしまい、修理代で結構執られたりしてけっこう痛い目に遭いました。今では生徒の作文の添削と採点用にだけ使っています。

また、一時期は私の好きな「山口瞳」が惚れ込んで、遭う人ごとにプレゼントしていたボールペンを使っていましたが(一本100円とかの、安い水性ボールペンです)もうはるか昔のことなので、何というペンだったか忘れてしまいました。多分今はもう売ってないような気がします。ただ、今にしてみるとこのペンは確かに当時はすらすら書けて良かったのですが、現代の「サラサ」や「スラリ」などと比べると、かなり「カリカリ感」が強かったと思います。ここ十数年来でいうと、やっぱりそれか、の感のある「ジェットストリームの1ミリ」がエース級の活躍をしていました。私は赤、青、黒の、1ミリのリフィルを買って、この使い込んだ「ピュアモルト」に入れて使っていました。

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ところが、これが結構重たく感じるようになってきたのです。そこで日和って使うようになったのがこれ。(同じくジェットストリームの1ミリに入れ替えてあります。)

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これは軽くてとても使いやすかった。三色使えるのもとても有り難い。なぜかというと、去年まで国語のテストを作るときに、「知識・理解・技能」「読む力」「書く力」の三観点に分けて問題を作っていたので、知識は黒、書くは青、読むは赤、といったように、三色に分けて丸付けをすると後の計算が楽だったのです。今年から二観点で作っていますが、今でもエース級の活躍をしています。ただし、1ミリのリフィルが、かなり減るのが速いのが難点。特に赤ばかり減ってしまうので、意外とリフィル代がバカにならない。(しみったれた話で恐縮です。)

また、ボールペンはなんやかんや言ってもやっぱり硬いので、結構肩が凝ったりするんですよ。そこでちょっと気分転換として使うのが「赤芯のシャープペンシル」です。今は特に小テストの採点でよく使います。太さの違う物を二種類、気分で使い分けています。太い方は1.3ミリの「鉛筆シャープ」です。

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もともとは青い色の、もっと太くてひねると消しゴムが出てくる型の物を使っていましたが、しばらく使わなかったら軸が加水分解でベタベタになってしまったので、ごらんの鉛筆と似た太さのシャープペンシル(関係ないけど、これって和製英語だそうですね。英語ではメカニカルペンシル、でしたっけ?)を使っています。そして「自己満へそ曲がり流」の変化球として、0.9ミリの赤芯シャープも使っています。それがこれ

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シャープ自体は知る人ぞ知る、新聞記者御用達?の「プレスマン」です。ちょっとしたこだわりとして、普通の文房具屋には売っていない、0.9ミリの赤芯を、ネットで探して「建築用シャープ替え芯」というものを発見し、1.3ミリに飽きた時なんかに使っています。(これを使っている教師は、ハッキリ言って日本にほとんどいないだろう、と自己満にひたっています。正直かなりこういうくだらないところに、こだわりが強いもので、自分自身「大人の発達障害」を疑っています。)で、現在「定期テストの丸つけ」に使っているのは、ジェットストリームよりも一周回って「サインペン」系の方がメインになってきました。ボールペンよりも赤芯シャープ、さらにもっと柔らかいサインペン系へと、どんどん軟弱化が進んでいます。では、現在主に使っているペンについての話はまた次回。(文具に興味の無い方には申し訳ありません。)

 



 

「夏の葬列」(山川方夫)で感じた違和感③

葬式まんじゅうほしさに、おだって(この方言わかりますかね?「調子こいて」くらいの意味かな?)芋畑の中を突っ切っていった主人公を助けにきて、銃撃を受けてしまったヒロ子さんは、実はいち早く「道の」防空壕に避難していた。その安全な防空壕からわざわざ助けるために飛び出していったことがわかる表現とは?・・・もうおわかりですね。最初の男性のこのセリフです。

「おーい、ひっこんでいろその女の子」

「隠れろ!」でも「ひっこめ!」でもなく「ひっこんでいろ」です。ということは、その直前の時点では「ひっこんでいた」ということになります。「道の防空壕に」でヒロ子さんが逃げおおせた可能性を示すだけではなく、さりげなく見逃しそうな「ひっこんでいろ」という表現で、実は一度安全地帯に逃げ込んでいたことも、きちんと暗示しているんです。そしてそれに気づくと、より一層調子こきのクソガキ主人公のした行動の酷さが明確になってくるわけで、事実気づいた生徒はかなり「ドン引き」していたのを覚えています。この話を最後に教えてから、もうかなりの年月が経ちました。(調べてみるとどうやら平成24年度版からのようです。10年以上は経っているんですね。)それでも、最初にこの言葉の裏の意味に気づいたときの、「うーむ、山川方夫・・・あなどれん!」という感覚は今でも新鮮に残っています。(主人公の行為が「カルネアデスの板」(=緊急避難)にあたるかどうか、なんてことも投げかけたことがありますが、まぁあまりうまくはいきませんでした。)

もう一か所、100%の先生がふれる、「ううん。悪くなかったよ。体は全然じょうぶだったよ。」の、限定の副助詞「は」の使い方は、かなりわかりやすい「伏線」なので、多くの生徒が気づきますが、①で引用したシーンの「ああ、ぼくヒロ子さんと一緒に殺されちゃう。ぼく死んじゃうんだ、と彼は思った。」の「は」の使い方の巧みさも見逃せません。つまり、「ヒロ子さんよりぼく」→「ぼくだけ」のことを考えるようになる瞬間の、心の揺らぎというか、ダークサイドに陥る変化が、非常にうまく表現されていると思います。

①で、「あらすじの紹介」と書いたのに、前半までしか紹介していませんでしたが、ショートショートなので後半部分はあえて書かないこととします。ざっくり言えばこの話は、「心のわだかまりを軽減しようと思ったらむしろ倍になってしまった」という内容です。(教材研究をしてないので、確証はないのですが、「芋の葉を、白く裏返して風が渡っていく。」という表現が、その「どんでん返し」を象徴している、と私は読みます。)ほかにも細々こだわって教えた気がしますが、もしこの駄文をお読みの中学校国語科の先生がいらしたら、「この箇所の読解も面白いよ」と、ご教授を賜れば幸いです。(といっても、もう二度と「夏の葬列」を教える機会はないと思いますが。)

次回はちょっと趣向を変えて、「こだわりの文具」をご紹介します。(といっても、安物の「丸付けグッズ」とかですが。

そういえば子供の頃、「ソーダ村の村長さんがソーダ飲んで死んだそうだ葬式まんじゅうでっかいそうだ」という言葉遊びがありましたが・・・え、知らない?・・・およびでない?こりゃまた失礼いたしましたっと。(←誰も突っ込みようのない昭和中期のギャグ)