ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室時々アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

「星の花が降るころに」についての考察その1

突然ですが、私はパソコンのプログラムやハードについては全然わかりませんが、ネットにはISDNの時代から繋いでいて、2ちゃんねるなんかもよく見ていました。それがどうしたかというと、私はこの「星の花が降るころに」の作者である安東みきえさんは、ひょっとしたら「2ちゃんねらー」だったのではないか?という疑惑を感じている、ということなんです。まぁもしそうだったとしても、別にどうということはないのですが、どうしてそう感じたのかというと、この小説のかなり重要なキーワードである「あたかも」の扱い方について、初読の時に「あれ?これどっかで見たな?」と思ったからです。(※注!パクりだと言っているわけではありません!)教科書の解説によれば作者は1953年生まれで、私の一世代上の方ですが、だとしたら十分パソコン通信や、2ちゃんねるに触れていても不思議のない年代です。で、「あたかも」と2ちゃんねるの関係についてです。

そもそも小説の中では、主人公のJCと、密かに(といっても主人公以外にはバレバレの)主人公に想いを寄せるサッカー部の男子(以後矢部君)との会話の中に、この言葉が2回出てきます。1回目は、他の男子に押されて主人公にぶつかり、内心嬉しいくせに怒ってみせた矢部君が、塾の宿題として出された「あたかも、を使って短文を作れ」の答えを、主人公に聞く場面。もう1回は(注!以下ネタバレを含みます)あることで凹んでいた主人公を元気づけるため、わざと矢部君はこう話しかけた場面。

「俺、考えたんだ。」略「ほら、『あたかも』という言葉を使って文を作りなさいってやつ。」略「いいか、よく聞けよ・・・おまえは俺を意外とハンサムだと思ったことがー」にやりと笑った。「ーあたかもしれない。」

生徒のうちほとんどは、矢部君が主人公の気持ちをほぐすために、わざと間違った用法で文を作ったことは理解します。(若干名、矢部君が「頭が悪い」んだ、と考える生徒もいますが、「にやりと笑った。」という表現から、天然ではなく「確信犯」であることがわかります。というか作者はそう読みとってもらいたがっています。)で、この「あたかもしれない」が、たまたまの作者の思いつき、だったとしたらまことに失礼な濡れ衣になるんですが、この「勘違い短文」は、かなり昔からネット上のギャグの一分野として流通していた内容なんですよね。「○○を使って文を作れ」の答えの例として

あたかも→冷蔵庫に牛乳があたかもしれない

まさか〜ろう→まさかりかついだきんたろう

うってかわって→彼は麻薬をうってかわってしまった

もし〜なら→もしもし、奈良の人ですか?`

どんより→私はうどんよりそばが好きです

・・・私が覚えているのはこれくらいですが、少なくとも20年以上、下手したら30年くらい前には、ネット上に載っていた有名なギャグです。改めてここで、勘違いしないでいただきたいのですが、私は安東さんが「パクったに違いない!qあwせdrftgyふじこlp;@:「!(←これもかなり懐かしい)」と批難してるわけではありません。借用したとしても、自分の表現としてきちんと消化して使っていますから、何ら問題はありません。(また、もし「ネットなんて見たことはなかったし、オリジナルのアイディアである」としたら、大変失礼なことを言ってしまって申し訳ありませんでした、とこの場を借りてお詫び申し上げます。そもそもこのようなギャグを思いつくのは、それほど珍しいことでもないですし。)私はむしろ、こんな古めかしいギャグが、今の生徒にもウケていることを、元2ちゃんねらーとしてうれしく思っています。

さて、ひょっとしたら失礼な話になってしまったかも知れませんが、この「星の花が降るころに」は、ある一箇所の表記を抜かして、いろいろ突っ込んで生徒に読み込ませたい、含みを持った面白い表現がたくさんある、優れた小説だと思います。(←取り繕っているつもりはないのだけれど、なんか言い訳がましく見えるなぁ・・・)

次回からは、何回かに渡って、多分あまり他の国語の先生が突っ込んでいないであろう箇所に、高校生レベルのマニアックな読み取りをさせた授業の内容をご紹介します。お暇があれば読んでやってください。どっとはらい

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教科書会社に電話した話その5

前回の続きです。『「新しい博物学」の時代』の中の表記に引っ掛かりを感じた私は、以前書きました「卵」から数年後、また教科書会社に電話をしてみました。ただし、今回の電話は正直「ツッコミを入れるのは野暮な内容」であることは重々承知の上でした。専門家である筆者は絶対に分かっているはずなのに、あえてドラマチックな展開にするために、そのような表記にしたんだろうな、と想像しつつも、どうしてもツッコまずにはいられなかったのは、私の性格の悪さが如実に現れた結果だと自認しています。さて、私が引っかかった表記は以下の部分です。

「定家の記録と最新の技術とを合わせることによって、超新星爆発が起こった年が一〇五四年というように決定できたのです。」

いかかでしょうか。文章全体でも一番盛り上がる箇所なので、逆に私は強く引っ掛かりを感じました。「かに座の超新星爆発が、地球上で目撃されて、明月記で記録されたのが一〇五四年なので、この年に超新星爆発が起こった」という内容ですよね。ところで、かに座はどこにあるかというと、ウィキによれば地球から「7000光年」離れているとのこと。・・・もうお分かりですね。「7000光年ということは、光の速度で7000年かかる距離である。だとしたら、地球上で一〇五四年に目撃されたのならば、実際の爆発は「それよりも7000年前」だということ。野暮を承知でさらに言うならば、7000光年はおよそ、であり、おそらく数年、下手したら数十年くらいは『誤差の内』になるだろう。だとしたら『超新星爆発が起こった年は一〇五四年』という表記はおかしいのではないか?」と、こう電話してみたわけです。・・・はい、お読みいただいている皆様はきっと、あまりの野暮なツッコミにドン引きなさってますね。だいいち、「超新星爆発が起こったのは一〇五四年からおおよそ7000年くらい前と決定できた。」では、盛り上がりもへったくれもあったもんじゃないですよね。

この電話に応対してくれた会社の方の対応は、細かくは覚えていませんが「厳密に言えば確かにそうなんですがゴニョゴニョ」といった感じでした。そしてお決まりの「担当者に伝えておきます。ご指摘ありがとうございます。」という感じでオシマイ。(そして案の定、謝礼の話は出ませんでした。多分都市伝説なんでしょうね。)

当然ですが私は、定家の「明月記」の、記述の重要性や貴重性を否定するつもりは毛頭ありません。それに、古人の営みを現代科学に結びつける考え方、ものの見方は面白いし素晴らしいと思っています。ただ、恐らくこの記述は、ちょっと天体に関する知識を持っている中学生なら、私と同じような引っ掛かりを感じる子がいるんじゃないかとも思ったのです。(私自身は、高校時代物理や化学で赤点を食らっていたレベルの、全く理系オンチですが、そんな私でも「おや?」と思うのですから。)

長い教師生活の中で、教科書会社に入れた電話は3回です。またいずれ、3回目の電話の内容について書かせていただきます。次回は「星の花が降るころに」についての小ネタを。(実は3回目の電話は、この「星の花が〜」についてのものだったのですが、教科書をお持ちの方は、もう一度読み直してみてください。「あれ?」と思うところがありますから。)それではまた。

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ヤマトは14万8千光年を約1年で往復したわけですが。

教科書会社に電話した話その4

もちろん極論であり、この辺が「へそ曲がり」なわけですが、私は授業の中でよく生徒に、「性格の悪い人は国語ができるはず。」と言ったりしています。どういうことかというと、「人の揚げ足取りがうまい」とか、「人のしくじりに目ざとい人」は、国語の読み取りがうまい(はず)だという意味です。(※注!だからといって「国語ができる人がみんな性格が悪い」ということではありません!)

まぁその「性格の悪い典型」が、常に鵜の目鷹の目で突っ込みドコロを探している、この私自身であることは自覚も自負もしています。(←自負はマズいだろうに)しかしながら、文章を「何か裏の意味はないか?」とか、「何か矛盾点はないか?」と考えながら読むことは非常に大切なことです。私自身は、ミステリー小説を好んで読んでいたことが影響して、こんなへそ曲がりややこしい読み方をするようになったのでしょうが、生徒にも「教科書でもその他の本でも、字面だけ読んで全部分かったつもりになっていたらもったいないぞ」ということは伝えたいですね。

前置きが長くなりましたが、今回のお題「教科書会社に電話した話」の教材は、15年くらい前の、教育出版3年生の教科書「『新しい博物学』の時代」についてです。で、私がいちゃもん疑問を呈した部分を引用します。

(前略)かに星雲は、おうし座ゼータ星の近くにある、熱いガスの塊が多数群れている星雲です。望遠鏡で見ると、星雲の形が、かにの甲羅の形に似ているので、かに星雲と呼ばれています。大きな望遠鏡で詳しく観測すると、強い光が筋状に走っており、その光は激しいエネルギー放出が起こっているために発生していると考えられています。
 年を隔てて撮った写真を詳しく調べると、かに星雲は高速度で膨脹していることがわかります。これは、かに星雲超新星爆発の残骸であるためだと推定されています。爆発で誕生したガスやちりのようなものが膨脹し続けているのです。では、この超新星爆発はいつ起こったのでしょうか。星雲の膨脹速度をもとにして計算してみますと、約九〇〇年前だろうという結果が出ました。しかし、現代天文学の最新の技術と知識を導入しても、爆発が起きた年を正確に割り出すことは不可能でした。
 この問いに示唆を与えてくれる文書が、ある日本人のアマチュア天文家によって指摘されました。「小倉百人一首」の編者として有名な藤原  定家の日記『明月記』です。定家がそれを書き始めたのは一一八〇(治承四)年で、十九歳のときでした。以来定家は、五十六年間書き続けた日記のいたるところで、さまざまな天文現象を書き留めています。そして、自分が見たこととともに、それと同じような天文現象が過去になかったかどうかを丁寧に調べて、書きつけているのです。定家は著名な歌人ですが、朝廷の役人が本職であり、前例を調べるのが習慣となっていたようです。
 一二三〇(寛喜二)年十月二十八日、客星(訪れ、去っていく客のように、一時的に輝く星や彗星のこと)の出現を目撃した定家は、その様子を毎日のように詳しく日記に書きつけるとともに、過去の文献を読んで前例がないかどうかを調べました。『明月記』の十一月八日の項には、過去の客星の出現例が八例載っています。
 次の文章は、その出現例の一つです。

後冷泉院の天喜二年四月中旬以後、丑の時客星が觜參の度に出づ。
東方に見はれ、天関星に孛す。
大きさ歳星の如し。

後冷泉帝在位の天喜二(一〇五四)年四月中旬以後に、深夜二時ごろ、新しい星がオリオン座の方向に出現した。
東の方向に現れて、おうし座ゼータ星近くで明るく輝いた。
大きさは木星くらいである。

 この記録に表された星の位置は、かに星雲の位置とぴたりと一致しました。さらに、一〇五四(天喜二)年は、かに星雲超新星爆発が起きたと推定される時期とも一致します。定家の記録と最新の技術とを合わせることによって、超新星爆発が起こった年が一〇五四年というように決定できたのです。
 ならばと、世界じゅうの天文学者によって、定家が記録した他の例も調べられました。その結果、一〇〇六(寛弘三)年のおおかみ座の超新星爆発と一一八一(養和元)年のカシオペヤ座の超新星爆発も、定家の記録と一致することがわかりました。さらに、現代では、定家によってもたらされた明るさやその時間変化の克明な記録から、爆発した星のタイプや重さも割り出せるようになりました。
 以来、天文学者は、中国や日本の古典を調べて、天文現象の記録を調べるようになりました。(後略)

 

併せて「かに星雲」についてウィキペディアから一部抜粋

かに星雲[1](かにせいうん、Crab Nebula 、M1、NGC 1952)はおうし座にある超新星残骸で、地球からの距離はおよそ7000光年。典型的なパルサー星雲で、中心部には「かにパルサー」と呼ばれるパルサーの存在が確認されており、現在も膨張を続けている。

この星雲の元となった超新星爆発が1054年に出現したことが、中国や日本の文献に残されている

さて、いったい私はこの教科書の記述のどこにクレーム疑問を感じ教育出版に電話をしたと思いますか。長くなりましたので続きはまた次回。お時間があれば読んでやってください。

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かに星雲





 

説明的文章を読むときのヒソカな楽しみ方

さて、教科書にはいろいろなジャンルの教材がありますが、正直私は説明的文章があまり好きではありません。小説と違ってあれこれ推理する場面がなく、「読めば分かる」ように書かれているからです。自分の授業が下手くそなことを棚に上げて言いますが、どうも説明的文章の授業は、数学で答え合わせをしているような感じがしてしまいます。私の授業だからかもしれませんが、生徒の食いつきも今ひとつ、という気がします。おそらく、説明的文章には「筆者の気持ちを読みとる」とか、「行間を読む」ような場面が少ないからじゃないかと思います。(評論文なんかは逆に、表現が小泉進次郎ポエムっぽすぎて、何を言ってるのか分からなかったり、筆者の思い入れの強さに馴染めず、食傷気味になるものもあったりしますが。)

ただ、説明文や論説文の中にも、ちょっとした表現から、筆者の気持ちが読み取れる、というか筆者の「ドヤ顔」が覗ける箇所があったりして、そこを見つけるとつい「ニヤリ」としてしまい、生暖かい目で見てしまったりするんですよ。そんな一文を見つけるのが、私の「説明的文章を読むときのヒソカな楽しみ方」です。具体的な例をいくつか挙げてみます。

例1「モアイは語るー地球の未来」の中の一文。

「この謎を解決したのが、私たちの研究だった。」・・・どうです。鼻高々な「ドヤ顔」が目に浮かんできませんか?w(断るまでもありませんが、私は決して否定しているわけではありません。どちらかというと無味乾燥になりがちな説明的文章に、血が通っている感じがして、ほっこりした気持ちになります。皆さんはどうですか?)

例2「クマゼミ増加の原因を探る」の一文

「しかし、私たちがクマゼミについてこの結論を得るまでには、何年もの間、実験や観察を重ねる必要があった。」・・・これなどは、いかにも長年の苦労のほどと、その苦労の末に結論を得た、誇りのようなものを伝えたい気持ちが、ありありと伝わってきませんか。

例3「『言葉』をもつ鳥、シジュウカラ」の一文

「人間以外に、複数の「単語」を組み合わせる能力が実証されたのは、シジュウカラが初めてです。」・・・この「初めてです」あたりに、やはり筆者の誇らしげな「ドヤ顔」が透けて見えてきます。人間誰しも、「新発見」はうれしいものです。私自身も、何度も扱ってきた教材の中に、今まで気づかなかった新たな発見があると快感すら覚えます。(そうならないためにきちんと教材研究をしておけよ、というツッコミは勘弁していただくとして。)

説明的文章では、「筆者が一番伝えたかったこと」は、大抵最後の「結論」部分に書いてありますが、「筆者が一番書きたかったこと」は、結論以外の途中に潜んでいることが多いです。そんな箇所を見つけて、筆者の顔を思い浮かべながら読む、なんてのも読書の中の楽しみじゃないか・・・まぁ、これはあくまでも「個人の感想です」けど。

しかし、こういう偏った、というか意地の悪い読み方をしていると、余計なことにも気づいてしまったりするわけで、次回は「教科書会社に電話をした話その4」として、あろうことか説明的文章の内容に噛みついた疑問を呈した話を書こうと思います。お暇でしたら読んでやってください。どっとはらい

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私の丸つけ筆記具の変遷②

変遷と言いますか、今現在の主力選手の紹介になります。つまり「柔らかくてあまり肩の凝らないソフト系」のサインペンです。と、いっても「パイロット系」と「プラチナ系」の二種類しかありません。ではまず、パイロット系の丸つけペンはこれです。

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黒の軸もあります。たしか千円弱だった気がします。キャップをした段階ではかなり短く、軽いし持ち運びも便利で、ペン先も柔らかくていいのですが、ちょっとペン先がへたるのが早い気がします。取り替えたばかりの時は堅さといい太さと良い理想的なのですが、2クラスくらい丸をつけるとかなりフニャフニャになる感じです。丸つけには支障はありませんが、何か書き込むとなるとちょっと太くなってしまっているなぁ、と思います。インクはパイロットの万年筆用のものを使います。パイロット系はこれと、前回紹介した万年筆くらいです。

次にプラチナ系のサインペンですが、これが何というか「中二病的」なんですよ。「小学生並み」と言ってもいいかもしれません。どういうことかは後ほど説明しますが、まずは定番の、それこそ「採点ペン」でググるとでてくるこれ。

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特に小学校の先生に愛好者が多いように感じます。これで丸つけしている先生をみたことありませんか?パイロットと比べるとペン先が少し固めな感触ですが、減り方はこちらの方が少ないように感じます。そして、おなじプラチナ万年筆用インクを使っているこれ。

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これの万年筆はちょっと大きめな文房具屋さんなら、必ず置いてあると思いますが、このサインペン版(マーキングペン、と書いてありますが)は、通販でないとなかなか見つかりませんし、何故か「本体165円、送料700円」とか、「おいおい」というところが多いです。(ヨ〇バシドットコムだと送料無料、他にもあるかもしれませんが)上の採点ペンよりもかなり軽いですが、これのペン先はかなり柔らかめで、先が丸くなる早さは、採点ペンよりもかなり早い感じがします。書いた感触は非常にソフトです。

で、どこが「中二病的」で「小学生並み」かというと、これをごらんください。

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採点ペンにはスケルトンの軸もありますが、「こんな軸あったっけ?」と思われる方はかなりの文房具フェチマニアでしょうな。これは実は、採点ペンの前半分を、プラチナの安い万年筆の軸につけたのです。実はプラチナの筆記具のねじ込み式のものは、全てでは無いと思いますがサイズが同じで、非常に互換性が高いんです。だから、こんなこともできちゃいます。

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しかもキャップもちゃんとしまります。まあ、「できちゃいます」と言ったところで、それをやろうとする人も少ないでしょうし、「だからどうした?」というのが正しい大人の意見でしょう。(授業中にこういうふうに、軸とかキャップとか取り替えて遊んでる小学生や中学生、結構いますよねぇ?大人はともかく。)←お前は何なんだお前は!

現在、だいたいこの3種類を、気分で取っ替え引っ替えヘビーローテーションで丸つけにいそしんでおります。北海道では3年生の受験前学力テストのシーズンまっただ中です。採点でご苦労なさっている御同輩、がんばっていきまっしょい

ということで、2回に渡って何の役にもたたない駄文を書いてまいりました。次回はまた教科書の題材を、自己満へそ曲がり流に読解していこうと思いますので、お時間がありましたら読んでやってください。・・・ん~、それにしても・・・なぁ。

「実務には 役に立たざる うた人と 我を見る人に 金借りにけり(石川啄木)」

 

 

私の丸つけ筆記具の変遷①

こういうのも何ですが、私は結構文房具マニアでして、字が汚いわりには筆記具にこだわる、というかいろいろ買いたくなる性分です。(間違っても高い万年筆とかを買ったりはしません。せいぜい千円以内で、結構いろいろ楽しめるのがイイんです。)

働き始めてからしばらくは、学校の消耗品として置いてあった、今となっては何だったかもわからないような赤ボールペンで採点をしていましたが、たまに使っていたのがこのパイロットの万年筆です。

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ノック式で先が引っ込むので便利でしたが、とにかくちょっと使わないとすぐにインクがなくなってしまうし、手が滑って落としてペン先が曲がってしまい、修理代で結構執られたりしてけっこう痛い目に遭いました。今では生徒の作文の添削と採点用にだけ使っています。

また、一時期は私の好きな「山口瞳」が惚れ込んで、遭う人ごとにプレゼントしていたボールペンを使っていましたが(一本100円とかの、安い水性ボールペンです)もうはるか昔のことなので、何というペンだったか忘れてしまいました。多分今はもう売ってないような気がします。ただ、今にしてみるとこのペンは確かに当時はすらすら書けて良かったのですが、現代の「サラサ」や「スラリ」などと比べると、かなり「カリカリ感」が強かったと思います。ここ十数年来でいうと、やっぱりそれか、の感のある「ジェットストリームの1ミリ」がエース級の活躍をしていました。私は赤、青、黒の、1ミリのリフィルを買って、この使い込んだ「ピュアモルト」に入れて使っていました。

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ところが、これが結構重たく感じるようになってきたのです。そこで日和って使うようになったのがこれ。(同じくジェットストリームの1ミリに入れ替えてあります。)

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これは軽くてとても使いやすかった。三色使えるのもとても有り難い。なぜかというと、去年まで国語のテストを作るときに、「知識・理解・技能」「読む力」「書く力」の三観点に分けて問題を作っていたので、知識は黒、書くは青、読むは赤、といったように、三色に分けて丸付けをすると後の計算が楽だったのです。今年から二観点で作っていますが、今でもエース級の活躍をしています。ただし、1ミリのリフィルが、かなり減るのが速いのが難点。特に赤ばかり減ってしまうので、意外とリフィル代がバカにならない。(しみったれた話で恐縮です。)

また、ボールペンはなんやかんや言ってもやっぱり硬いので、結構肩が凝ったりするんですよ。そこでちょっと気分転換として使うのが「赤芯のシャープペンシル」です。今は特に小テストの採点でよく使います。太さの違う物を二種類、気分で使い分けています。太い方は1.3ミリの「鉛筆シャープ」です。

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もともとは青い色の、もっと太くてひねると消しゴムが出てくる型の物を使っていましたが、しばらく使わなかったら軸が加水分解でベタベタになってしまったので、ごらんの鉛筆と似た太さのシャープペンシル(関係ないけど、これって和製英語だそうですね。英語ではメカニカルペンシル、でしたっけ?)を使っています。そして「自己満へそ曲がり流」の変化球として、0.9ミリの赤芯シャープも使っています。それがこれ

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シャープ自体は知る人ぞ知る、新聞記者御用達?の「プレスマン」です。ちょっとしたこだわりとして、普通の文房具屋には売っていない、0.9ミリの赤芯を、ネットで探して「建築用シャープ替え芯」というものを発見し、1.3ミリに飽きた時なんかに使っています。(これを使っている教師は、ハッキリ言って日本にほとんどいないだろう、と自己満にひたっています。正直かなりこういうくだらないところに、こだわりが強いもので、自分自身「大人の発達障害」を疑っています。)で、現在「定期テストの丸つけ」に使っているのは、ジェットストリームよりも一周回って「サインペン」系の方がメインになってきました。ボールペンよりも赤芯シャープ、さらにもっと柔らかいサインペン系へと、どんどん軟弱化が進んでいます。では、現在主に使っているペンについての話はまた次回。(文具に興味の無い方には申し訳ありません。)

 



 

「夏の葬列」(山川方夫)で感じた違和感③

葬式まんじゅうほしさに、おだって(この方言わかりますかね?「調子こいて」くらいの意味かな?)芋畑の中を突っ切っていった主人公を助けにきて、銃撃を受けてしまったヒロ子さんは、実はいち早く「道の」防空壕に避難していた。その安全な防空壕からわざわざ助けるために飛び出していったことがわかる表現とは?・・・もうおわかりですね。最初の男性のこのセリフです。

「おーい、ひっこんでいろその女の子」

「隠れろ!」でも「ひっこめ!」でもなく「ひっこんでいろ」です。ということは、その直前の時点では「ひっこんでいた」ということになります。「道の防空壕に」でヒロ子さんが逃げおおせた可能性を示すだけではなく、さりげなく見逃しそうな「ひっこんでいろ」という表現で、実は一度安全地帯に逃げ込んでいたことも、きちんと暗示しているんです。そしてそれに気づくと、より一層調子こきのクソガキ主人公のした行動の酷さが明確になってくるわけで、事実気づいた生徒はかなり「ドン引き」していたのを覚えています。この話を最後に教えてから、もうかなりの年月が経ちました。(調べてみるとどうやら平成24年度版からのようです。10年以上は経っているんですね。)それでも、最初にこの言葉の裏の意味に気づいたときの、「うーむ、山川方夫・・・あなどれん!」という感覚は今でも新鮮に残っています。(主人公の行為が「カルネアデスの板」(=緊急避難)にあたるかどうか、なんてことも投げかけたことがありますが、まぁあまりうまくはいきませんでした。)

もう一か所、100%の先生がふれる、「ううん。悪くなかったよ。体は全然じょうぶだったよ。」の、限定の副助詞「は」の使い方は、かなりわかりやすい「伏線」なので、多くの生徒が気づきますが、①で引用したシーンの「ああ、ぼくヒロ子さんと一緒に殺されちゃう。ぼく死んじゃうんだ、と彼は思った。」の「は」の使い方の巧みさも見逃せません。つまり、「ヒロ子さんよりぼく」→「ぼくだけ」のことを考えるようになる瞬間の、心の揺らぎというか、ダークサイドに陥る変化が、非常にうまく表現されていると思います。

①で、「あらすじの紹介」と書いたのに、前半までしか紹介していませんでしたが、ショートショートなので後半部分はあえて書かないこととします。ざっくり言えばこの話は、「心のわだかまりを軽減しようと思ったらむしろ倍になってしまった」という内容です。(教材研究をしてないので、確証はないのですが、「芋の葉を、白く裏返して風が渡っていく。」という表現が、その「どんでん返し」を象徴している、と私は読みます。)ほかにも細々こだわって教えた気がしますが、もしこの駄文をお読みの中学校国語科の先生がいらしたら、「この箇所の読解も面白いよ」と、ご教授を賜れば幸いです。(といっても、もう二度と「夏の葬列」を教える機会はないと思いますが。)

次回はちょっと趣向を変えて、「こだわりの文具」をご紹介します。(といっても、安物の「丸付けグッズ」とかですが。

そういえば子供の頃、「ソーダ村の村長さんがソーダ飲んで死んだそうだ葬式まんじゅうでっかいそうだ」という言葉遊びがありましたが・・・え、知らない?・・・およびでない?こりゃまた失礼いたしましたっと。(←誰も突っ込みようのない昭和中期のギャグ)

 

 

 

 

「夏の葬列」(山川方夫)で感じた違和感②

前回書きました「違和感」についてですが、皆さんはどこかに違和感を感じたでしょうか?さて、私が感じた違和感とは何かというと、ヒロ子さんのセリフの中の、「早く、道の防空壕に・・・」なんです。もっといえば、「道の」です。これって、切羽詰まった状況で必要でしょうか?「早く防空壕に」で十分伝わりますよね。

「えー?全然不自然に感じなかったけど?」という方もいらっしゃると思いますが、状況が状況です。艦載機から銃撃を受けているという緊急事態に、何でこんな説明的な言葉を言わせているのか?と、私は不自然に感じたわけです。そして改めて読み返してみると、この伏線が効いてくるわけです。「ヒロ子さんはあぜ道を大回りしている。」

ほとんどの国語の先生が、この箇所について私と同じく違和感を感じ、この箇所について、「つまりヒロ子さんは、あぜ道を走っていたから防空壕にすぐ入れたんだけど、そこに入らずに彼をわざわざ助けに来た、ということだね。」という読解を授業の中で入れていたはずです。ここで、「自分一人だけだったら防空壕に避難すればよかったのに、それをしないでわざわざ危険な芋畑の中まで助けに来てくれた、そのヒロ子さんを、主人公は突き飛ばしてしまったんだね。」ということを確認するわけです。まぁ人によっては、「まさに運命の分かれ道だったわけだね。」とか言ってドヤ顔する先生もいたことでしょう。(・・・あ、そりゃ俺だ。)ここで、「まじめで良心的で献身的なヒロ子さん」が酷い目に遭い、「行き当たりばったりで自己中心的なクソガキ主人公」の命が助かってしまう、という皮肉な運命と、性格の対比が明らかになってくる場面です。99%の先生がこう教えているはずです。

さて、ここからが、のこり1%の自己満へそ曲がり読解なわけですが、私はこの箇所についてはこう問題提起します。「ヒロ子さんは道を大回りしていたから防空壕が近くて逃げることができた。そして、ヒロ子さんは、いったん安全な防空壕の中に避難したのに、わざわざその安全地帯から、主人公を救うために出てきたということが書かれてあるわけだが、そのことについては読み取れるかな?」

まぁほとんどの生徒は「そんなことは書いてありません!」というのですが、学級の中の鋭い生徒1~2名くらいは、「ここに書いてあるよ。」と指摘すればピンと来ます。皆さんはいかがでしょうか?この件の自己満へそ曲がり読解はまた次回。

ネタを引っ張ってるようにお感じでしょうが、その通りです。日常ネタがあまり豊富な人間ではないポンコツですので、細く長く続けさせてください。ということで、違和感その③は、明日のこころだ~!(←昭和の人しかわからない、ラジオ「小沢正一的こころ」からのパクリ。)

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「夏の葬列」(山川方夫 教育出版2年生)で感じた違和感①

まずネタバレにならない程度にあらすじを紹介します。(教科書で読んだ、という方には無用ですが、教育出版の教科書ではなかった方もいらっしゃると思うので一応)

 

出張帰りのサラリーマンである主人公は、まだ戦時中だった十数年前の小学生の時、疎開していたある町の駅に、思いつきで降り立った。真夏の太陽が照りつける中、懐かしさを感じながらふらついていると、緑の葉の生い茂る芋畑の向こうに、葬列が動いているのを見つけ、昔疎開していた時のある出来事を思い出した。

東京から疎開してきた彼は、同じく二人きりで東京から疎開してきた、2年上級の5年生で、弱虫の彼をいつもかばってくれる、真っ白なワンピースを着た「ヒロ子さん」と、同じく芋畑の向こうで動く葬列を見つめていた。葬列のところに行けば葬式まんじゅうがもらえるかもしれないと思い、主人公は「競走だよ!」と言って芋畑の中を突っ切って葬列に向かった。それに対して、ヒロ子さんはあぜ道を大回りしている。

(ここで授業では、「なぜヒロ子さんは彼と一緒に芋畑の中をショートカットしなかったのか?」なんてのが、定番の発問になりますね。生徒からは「ワンピースが汚れるのがいやだった」「畑を荒らしてはいけないと思った」「彼に花を持たせてやろうと思った」「芋は戦争時貴重な食料だったから」「ヒロ子さんは大柄で大人ぶっていたから、ガキくさいと思った」等、「どれが正解とは言えないけれど、どれも間違っていない」という、「みんな違ってみんな良い読み取り」が出てくる、楽しみなシーンではあります。国語のこういうファジーというか良い加減というか、そういうところが私の性分にはあってます。というか理系は能力的にムリ。)

話を戻しまして、突如カンサイキ(艦載機、なぜカタカナで書いてあるのか?なんてのも定番の発問ですね。)が現れ、葬列に銃撃を加えはじめる。彼は恐怖で芋畑に倒れ伏し、必死に芋の葉を引っ張って隠れようとしていた。こここからは、あらすじではなく原文を(中略で)引用していきます。(改行するとなぜか一行空いてしまうのですべて詰めてあります。悪しからずご了承ください。)

(原文)「二機だ。隠れろ!またやって来るぞう。」奇妙に間延びしたその声の間に、別の声がさけんだ。「おーい、引っこんでろその女の子、だめ、走っちゃだめ!白い服は絶好の目標になるんだ、……おい!」 白い服──ヒロ子さんだ。きっと、ヒロ子さんは撃たれて死んじゃうんだ。その時第二撃が来た。男が絶叫した。(ここで「白いワンピース」の伏線が生きてきます。主人公は必死に隠れています。)(中略)突然、視野に大きく白い物が入ってきて、柔らかい重い物が彼を押さえつけた。「さ、早く逃げるの。一緒に、さ、早く。だいじょぶ?」目をつり上げ、別人のような真っ青なヒロ子さんが、熱い呼吸で言った。彼は、口がきけなかった。全身が硬直して、目にはヒロ子さんの服の白さだけがあざやかに映っていた。「今のうちに、逃げるの、……何してるの? さ、早く!」 ヒロ子さんは、怒ったような怖い顔をしていた。ああ、ぼくはヒロ子さんと一緒に殺されちゃう。ぼくは死んじゃうんだ、と彼は思った。声の出たのは、そのとたんだった。不意に、彼は狂ったような声でさけんだ。「よせ! 向こうへ行け! 目だっちゃうじゃないかよ!」「助けに来たのよ!」ヒロ子さんもどなった。「早く、道の防空壕に……。」「いやだったら! ヒロ子さんとなんて、一緒に行くのいやだよ!」夢中で、彼は全身の力でヒロ子さんを突き飛ばした。「……向こうへ行け!」悲鳴を、彼は聞かなかった。その時強烈な衝撃と轟音が地べたをたたきつけて、芋の葉が空に舞い上がった。辺りに砂ぼこりのような幕が立って、彼は、彼の手であおむけに突き飛ばされたヒロ子さんがまるでゴムまりのように弾んで空中にうくのを見た。

引用は以上です。緊迫感の伝わる、いいリズムの文章だと思います。この小説は本当にあちこち「良い意味で」突っ込みどころが多くて、ついつい細かい描写の読解に時間を費やしてしまいます。(艦載機が日本本土に来るということは、すぐ近くまでアメリカの空母が来ているということで、そのことからも終戦間近だとわかる、とかね)さて、この原文抜粋の箇所で、「作家は細かいところまで神経を使って書いていて、無駄な表現はない。」「表現で何か違和感を感じるところには、裏があると思って読め。」と言っている私が、妙な違和感を感じた箇所があるのですが、それはどこだと思いますか?(というか皆さんも上の文章を読んで、何かひっかかる表現はありませんか?)こんな妙なこだわりを持って授業を進めている国語教師は、100人中2、3人だと思いますが、お暇でしたら考えてみてください。長くなりましたが、私の「自己満へそ曲がり読解」は、次回紹介させていただきます。

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「1・2の三四郎」というマンガに


高校生の時どっぷりつかりまして、その影響でプロレスにも興味を持ち(ハルク・ホーガン初代タイガーマスクがデビューしたり、スタン・ハンセンとアンドレ・ザ・ジャイアントが戦ったりと、まさに黄金期でした。)、東スポやプロレス雑誌も読んだりしていた時期がありました。関連して、村松友視の「私、プロレスの味方です」というエッセイ集も読んでいたのですが、その本の中に、「真剣に戦いを演じているレスラーと、真剣に見つめその戦いの意味を読み取ろうとする観客は、対等の立場である」というような趣旨が書かれていました。(あいにく資料が見つからず、正式な文言はわかりませんが、私なりにはそのように解釈しました。)で、個人的には本を読む時にも同じようなことが言えるのではないか、と思っています。つまり「隅々まで神経を使って本を書いている作者と、作者の意図をできるだけ汲み取って読もうとしている読者は、対等の立場である」と。

前置きが長くなりましたが、山川方夫の「夏の葬列」について書きます。この話は指導書によれば(正直指導書を読むこともほとんどしないポンコツなんですが)いわゆる「ショートショート」として書かれたものだそうで、伏線も、意外な結末もきちんと通っていて、登場人物の心情の読み取りも十分にできる、中学生の読解力養成に、とても適した教材だったと思います。ところで、若いころにはしていませんでしたが、歳をとってから「違和感のある表現の箇所には何らかの意図が隠されていると思え。」ということも、小説の読解では指導、というか伝えてきました。(ほとんど生徒にはピンときていないので、指導というのはおこがましいのですが。)で、この「夏の葬列」の中にも、何だかちょっと違和感を感じる表現があり、その意味を深読みしていくと、「直接は書かれていないが物語の読み取りとしてはかなり重要な裏の意味」が隠されていたことに気づきました。(これは私のようなへそまがりでなくても、きちんと指導されている先生がたくさんいらっしゃると思いますが)

その、夏の葬列の中の、違和感を感じた表現と、その裏の意味について、次回書こうと思います。